飛躍的発展など誰も思わなかった


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                                                 君の力の源は何ですか (上)
                                                 使徒言行録3章1-10節


                                 (序)
  ドイツのメルケル首相の「わたしの信仰」という本が日本語に翻訳されました。読める人は、ぜひお読み頂きたいと思います。メルケルさんは牧師の娘ですが、実によくプロテスタントの信仰を理解し、それを政治の世界で展開しています。まるで、この世的な言葉で語る牧師、世俗社会の中の骨太な牧師と言っても過言ではないでしょう。本を読む限りそう思います。

  また、私はプロテスタントの信仰が現代社会にこれほど説得力を持っていることに驚きを覚えました。私は改めて、キリスト教でよかった、本当に良かったと掛け値なしに思いました。読める方はぜひともお読みください。必ずやキリスト者である事、信仰者の喜びを確信するでしょう。

  メルケルさんの事は後で戻るつもりですが、今はその位にして今日の聖書に入ります。

                                 (1)
  今日の最初に、「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た」とありました。

  弟子たちは、イエスの死後もエルサレムに留まりました。暫くは息を潜めて隠れ住んでいましたが、弟子たちに聖霊が降ってペンテコステの事件が起こります。息を潜めていた彼らが、大胆に公衆の前に姿を見せて、イエスの復活を説き始め、イエスを信じる者らが一挙に数千人規模で生まれました。しかし、キリスト教はまだエルサレムの神殿当局から公認されていませんし、ユダヤ教から独立していません。そのため、神殿のユダヤ教の礼拝に参加しながら、イエスの「復活の証人」として生きていたのです。

  でもイエスユダヤ教の指導者たちや信奉者によって殺害された訳ですから、いつ自分たちも襲われ、逮捕され、排除されるかも知れないと不安があったでしょう。

  彼らは、イエスの処刑を、復活信仰によって乗り越えて行きましたが、人間的には、やはり処刑は処刑です。処刑を群衆に紛れて、あるいは遠くから隠れて見ていたわけで、この大きな打撃を胸に秘めながら、彼らは今後の事を思案しつつあったに違いありません。

  いずれにしましても、この迫害下に、自分たちの信仰が、今後飛躍的に発展するとは誰も思わなかったでしょう。むしろ彼らの多くは、今後、細々とであっても、どうキリストを信じて生き延びるかを考えていたと思います。教会が生き延びることを考えるというのは胡散(うさん)臭いですが、長い歴史の中ではそういう事もあります。キリスト教は最初からそういう胡散臭い厳しい状況に立たされていたのです。

  ところがこの群れは、ある小さな事件がきっかけで飛躍して行ったのです。それは偶然だったのか、偶然をうまく捉えたのか。うまく捉えたのであるが、聖書はそれを聖霊の働きと見ています。その小さな事件が、今日のこの事件です。

   (つづく)


                                              2019年2月17日




                                              板橋大山教会  上垣勝




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