牧師にとって最良の時間


           小ぬか雨の中をビアトリックス・ポターの散歩道を辿りました(1)   右端クリックで拡大
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                                               ドアホンを押すキリスト(下)
                                               ヨハネ黙示録3章20節


 
                                (2)
  その様に語られた後、「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と言われています。

  冒頭に「そこで、あなたに勧める」とあります。17節まで心に突き刺さる厳しい言葉が連ねられて来ましたが、ここから「勧め」が始まります。

  「火で精錬された金」とは、純金の事です。純金は決して錆びません。不滅です。迫害するローマ帝国も皇帝も不滅でも何でもありません。恐れる必要はないのです。決して錆びない不滅の宝をキリストから頂いて、本当の豊かさをもって、富む者となりなさいと言う勧めです。

  「白い衣」とは、汚れない純白の衣、白く輝く衣です。ラオディキアは毛織物の産地ですが、ここでは精神的な意味の純白の衣です。それはキリストの殉教の血で洗い清められた純白です。罪が贖われた純白の衣を身に付けなさいという事です。

  「目に塗る薬。」ラオディキアは目薬の産地としても有名でした。ただここでも精神的な意味です。何が重要か、何が真実か、人生で一番大事なものが見ぬくためにキリストから目薬を買いなさい。あなたは自分の本当の姿が見えていなかった。今やキリストによって目を開けて頂きなさい。

  そして19節は、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」と語ります。これは当時の諺かも知れませんが、箴言3章12節には、「かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる」とありますし、ヘブライ人への手紙12章5、6節に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。

  「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。」私たちは今日も、この言葉をまじめに、割引なしに、文字通り受け取らなければなりません。でなければ叱ったり、鍛えたりされても、それが恵みになりません。益にならない。だが、愛するゆえに叱り、鍛えられる事を知る者は、成長します。人としてもキリスト者としても成長するのです。

  そして今日のみ言葉に着きました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

  「私」はキリストです。キリストが私たちの心の戸を叩いている。ヨーロッパに行くと、重いドアには必ずドア・ノッカーというのがついています。色んな形がありますが、普通は鋼鉄製の輪っかです。今なら、キリストは私たちを訪れて、ドアホンを鳴らしておられるのです。私をあなたの心の中に迎え入れて下さい。あなたの心の中で、私と出会って生活して下さいという事です。

  イエスは、ご自分との交わりを求めて戸を叩いておられるのです。私を、あなたの心の中に招き入れてもてなして下さいという事です。

  「共に食事をし」とあるのは、一日の内の一番主要な食事を共にすることです。心を許した、ゆっくりしたイエスとの交わりです。親密な、信頼し切った交わり。

  私は牧師をして一番良かったのは、イエスとの交わりが出来ることです。日々イエスの前に出て、歌を歌い、聖書を読み、それを静かに黙想します。一節づつ数分黙想します。マルチン・ルターが、深い森の中に入って、その一本一本の木の前に立って短い棒で叩く。すると一本一本の木はそれぞれ種類も太さも育ちも違って違った音色を立てて森に響くが、自分は聖書という深い森に入って一節一節から神の福音を聞くというようなことを言っています。私自身もそのようにして、聖書を一節一節黙想するのです。そして次にまた歌を歌い、聖書を読み、また静かにそれを黙想し、神の前に留まって祈ります。祈りの中で、皆さんのお名前を呼び、神に執り成し、心の中で交わっています。むろん世界の事も祈ります。そういうイエスとの交わりの中で、私の考えが変えられるのです。気分ではありません。気分も変わりますが、それだけでは不十分です。考えが変えられる。見方が変えられます。それが神との交わりで、一番大事にしていることです。

  考えが変えられると、見方が変わります。態度が変わります。「さあ、やるぞ」と、やる気が出ます。主に心を向けるから、自分でなく、主が変えて下さるのです。

  快適な日々を送っている時より、砂漠のような所にいると思える時には、一層主との交わりが素晴らしく思えます。主が来て下さるからで、希望の光で前途を照らして下さるのであり、薄っすらとでも光がさしているのが分かるからです。

  「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。わたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼も、わたしと共に食事をするであろう。」主との交わりへと誘うこの言葉は何と素晴らしい招きかと思います。

  最後に、Aさんが召されてから頂いたハレスビーという人の本に、今日の言葉が出ていました。そこにこうありました。幾つかを読みます。

  「イエスは、確かに交わりを望んでおられます。特にあなたとの交わりを。なぜなら、あなたの破れた魂がイエスをあえぎ求めているからです。」

  「あなたの心の戸を、今、イエスのために開きなさい。あなたの魂が、どんなに衰えているか、あなたがどんなに意気地なしになっているかを、イエスに告白しなさい。そうすれば、イエスはきっとあなたの魂の中に入って来て下さるでしょう。」「心の空虚を満たすものは、永遠のもの以外にない…。」

  「戸を開くとはどういう意味でしょうか。それは、イエスに、真実を語ることです。あなたが非常に宗教的であるにも拘らず、あなたは神を持っていないという、その事実をイエスに告げるのです。そうすればイエスは、あなたの信仰が、単なるあこがれや嘆きでなくて、それ以上のものになるようにして下さいます。イエスご自身、あなたの心の内に入り給うて、あなたと共に住んで下さるのです。」

  Aさんはこれらに傍線を何度か引いておられます。これを読むと、姉妹の魂がどこにあったか、何を考えて生きておられたか。何を一番大事にし、誰と交わって93歳まで――素晴らしい息子さんたちがいますが――独りの生活をしておられたかを教えられます。


      (完)
                                              2019年2月3日



                                               板橋大山教会  上垣勝




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