83%が現状に満足


      湖水地方でホタテ料理に舌鼓を打とうとは思いもよりませんでした。顎が落ちるとはこのことですね。
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                                               ドアホンを押すキリスト(中)
                                               ヨハネ黙示録3章20節

 
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  黙示録3章17節から皆で朗読しましたが、大変厳しそうな言葉が出て来ました。どうお感じになったでしょう。裁きの言葉として聴いたでしょうか。更には断罪のように聞こえたでしょうか。それとも警告ですか。それとも勧めや執り成しでしょうか。読む人によって異なります。

  私は、厳しい警告として聴いて来ました。ある時は裁きにも聞こえました。しかし今回は、執り成しや勧めだと思いました。「教会の天使に」宛てられたとあります。天使とあるのはどういう意味かはっきりしませんが、ラオディキア教会の神の使者、教会を導く指導者に宛てられたものと取れば、やはりこの教会に対する執り成しや勧めが目的であって、断罪や裁きと取るのは違うと思います。

  ただ、「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるい」とか、「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」という言葉は、厳しいお叱りの言葉です。これを直接上司から言われたらパワハラだと誤解する人があるかも知れませんね。

  実は黙示録が書かれた時代は、ローマ帝国による迫害の嵐がキリスト教会の上に吹き荒れる時代でした。信仰者が生きながらノコギリで切り刻まれて殉教する時代です。信仰が試され、堅固な信仰が必要でした。生ぬるい信仰では到底乗り切ることは出来ない。信仰の覚悟が必要でした。だから身の引き締まるような厳しい言葉が語られているのです。キリスト教が公認される200数十年前の事です。

  先日の新聞に、日経連と並んで経済界を代表する経済同友会の代表の小林さんという方へのインタビューが載っていました。この方は、「平成の30年間、日本は敗北の時代だった」と発言していて、独創的な技術や産業の分野で日本が世界中でかなり遅れを取ったと見ているようです。

  ところが昨年6月の内閣府の調査を見て、私も驚いた記憶がありますが、約75%の国民が現状に満足しているのです。驚くのは、18~29才では約83%が満足と答えている現実です。まるで今の日本人、特に若者たちは、先ほどのラオディキア教会の姿に似て、「満ち足りている。何一つ必要な物はない」と考えている状態です。

  小林さんという人はどういう人か知りませんが、インタビューで、今の日本人は、「今さえよければ、自分さえよければ」と生きている。「皆で楽しく生きて行きましょう」と考えて、「敗北を自覚しない」と語っていました。厳しい国際的な競争社会に身を置いている人だからこう感じるのでしょう。

  経済ではありませんが、ラオディキア教会の問題も、「わたしは…満ち足りている。何一つ必要な物はない」と、自分に満足してしまっている。ところが実は、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」ここにラオディキア教会の病があると語るのです。

  先程の14節で、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる」とありました。「アーメンである方」とは、真実な方、岩のように確かな方、偽りのない方です。即ちキリストを指しますが、この方が、あなた方は「自分は満ち足りているとか、何一つ必要なものはない」とか強がりを言っているが、いや、本音かも知れませんが、あなた方は自分の本当の姿がどんなに惨めで、貧しく、裸であるかが分かっていないと語られるのです。

  万物の源、根源である方が、あなた方の裸の姿を、教会の実態を見抜いてこう言われると言うのです。

  また「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」という言葉が数度出てきます。「熱いか、冷たいか、どちらかであってほしい」とか、「あなたを口から吐き出そうとしている」とあります。「熱くあって欲しい」とあるのは、沸騰するような熱さです。比喩的な言葉とは言え、火傷するような、「アツイ!」と感じるような熱さのことです。中途半端な熱さは、生ぬるいのです。

  これは別に、情熱的にいい仕事をするとか言うことではありません。そうではなく、人間としての真剣さです。愛において中途半端でない、燃えるようなものを持つことです。命が生きて、沸騰している。切れば赤い真実な血が噴き出る、そういう真実さです。イエス自身がそうであられたからでしょう。

  「口から吐き出そうとしている」とあります。まだ吐き出されていないが、このままだと吐き出されようという事です。なぜかと言えば、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はないと言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」からなのです。

  自分の姿が見えていないからで、「汝自らを知れ」という事です。物やお金や地位を取り去れば、あなたの実態は貧しく、心狭く、惨めで、人としての内容にも乏しく、愛もさもしく、裸同然でないか。受けるよりは与える方が幸いだとイエスは言われるが、あなたは与えるよりも受ける方が多いのでないか。その自分の姿が見えていないのでないか。自分を切磋琢磨して、裸の恥を晒さないようにして下さいと語るのです。

  断罪や裁きではありませんが、非常に心に突き刺さって来る言葉です。


      (つづく)


                                               2019年2月3日




                                               板橋大山教会  上垣勝





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