神のおもてなし


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                                                    神のおもてなし (下)
                                                    ルカ15章20節




(前回からつづく)

                                 (2)
  ルカ15章には3つの譬え話が出てきます。最初は「いなくなった1匹の羊の譬え」、次は「亡くなった1枚の銀貨の譬え」、おしまいが今日の「放蕩息子の譬え」です。それぞれ、羊飼い、主婦、父親が出てきますが、それらは神を指しています。イエスは、神はどういうお方かを3つの譬えで語られたのです。ではこの父親の姿は、神について、神の愛について何を教えているでしょうか。

  先ず神の寛大さです。「急いでいちばん良い服を持って来て」とあるのは晴れ着です。神は私たちに晴れ着を持って迎えられるのです。この世の色々なことで薄汚れた者にも神の義の晴れ着を、赦しの晴れ着を着せて下さるのです。罪に染まった者をさえきれいな晴れ着で包んで下さる。「手に指輪をはめてやり」とあります。この指輪は、あなたは私の愛する子、私の宝物ですという印です。指輪はその証拠です。あなたは私の掛け替えなく貴い存在だ。これが徴ですという事です。「履物を履かせ」とは、あなたは動物や奴隷ではありません。裸足(はだし)でなく履物を履いて、神の所に迎えられる人間だということでしょう。「肥えた子牛を屠って、食べて祝おう。息子は、死んでいたが生き返り、いなくなっていたが見つかった。」私たちが神のもとに帰って来るのを神は待っておられるのです。帰ってくれば、天では喜びの祝宴がなされるのです。私たちはちっぽけな小さな存在かも知れませんが、天では大きな喜びがあるのです。

  この父親は愚痴や叱責や嫌味を少しも持っていません。今日はそこまで致しませんが、この後出て来る兄とは大違いです。神に不義理を働き、落ちぶれた姿で帰って来ても、神は手を伸ばし、大きく腕を開いて温かく迎え入れて下さる。神は辛抱強く愛される方です。

  たとえ過去に神に恥をかかせた人でも、100%その人の責任で落ちぶれたのであっても、神は「よく帰ってきた」と言って、父親のように涙を流して迎えられるのです。神は真実な方です。どの人も神の息子であり、神の娘、神の愛する子たちです。勇気を奮い起こして神のもとに帰って来たことをよく知っておられます。

  先週は、テゼ共同体のブラザー・アロイスさんがマドリードに集まった多くの若者に話した「心の籠ったもてなし」についてご紹介しました。

  神は、気前よくもてなされる方です。「気前がいい」事を、英語でジェネラスと言います。ジェネラスとは、寛大だとか、物惜しみしない、心が広い、こせこせしないことを指します。悠々としているのです。ゆるやかで鷹揚(おうよう)なのです。何者も恐れず、悠然とゆったりと落ち着いているのです。

  言葉はどうでもいいのですが、人々を鷹揚に迎え入れる事。心の籠ったもてなしとは、こせこせせず、悠々として物惜しみしない迎え方です。愛はそういう心の広さです。

  神は、こせこせせず、悠々と物惜しみせず、どんな人もこの世に歓迎してくださったのではないでしょうか。小さな赤ちゃんであった私たちは、皆から歓迎され、その存在を喜ばれました。

  創世記1章にあるように、神は創造した世界をご覧になって、「甚だ善かった。これで善し」と言って祝福されました。宇宙に満ちるものは全て、神に迎えられたのです。神のお気に入りです。愛されています。太陽がなぜ気前よくタダで私たちに光を与え、空気も世界に満ちて漲(みなぎ)りあふれ、無料で与えられるのか。なぜ神は私たち被造物をこんなに温かくもてなして下さるのか。人間が関係するとどれも何かしら有料ですが、神のなされる事は驚くほどゆったりして、寛大です。神はもてなしてくださる方です。神のおもてなしです。

  その上、神は私たちの隣人になろうとして独り子キリストを送られました。人間から、神の似姿である人間らしさを、愛と勇気と真実を引き出すためです。冷淡さや偽りでなく、温かな友情をもって人間同士が迎え合い、それだけでなく動物や植物にも愛情を注いで共に生きるために、神のみ子キリストを遣わして、神の愛を教えて下さったのです。人間が神の似姿をもって生きるために、そこまで、独り子を十字架にかけてまで愛とは何か、真実な愛とは何か、どこにあるのかを示して、心を込めて神はもてなして下さるのです。神の、この心の籠った大きな愛、心の広い寛大なもてなしを知る時、私たちは驚きを覚えます。

  今は科学の時代と言われ、あらゆるものが科学の手で日進月歩、解明されて行きます。これは素晴らしい事です。しかし同時に科学の力で、人類の悩みは深まってもいます。それが人間の生存を脅かすものとさえなり、一歩間違えばこの地球さえ一瞬に吹き飛ぶことになるかも知れない寸前にまで来ています。人間自体を造りかえらんばかりの所に来ています。生態系の破壊も酷いですがそれ以上の深刻な事態です。

  しかし神は、私たちに科学と共に、愛や互いのもてなすこと、共に生きる叡智をお与えになり、真理を目指して生きる勇気を授けて下さいました。私たちは、科学を越えてもっと根本的な命の源まで行く必要がります。そのためにも、神が与えて下さった神の言葉、真理の源にまでさかのぼって行きたいと思います。

  「神のおもてなし」という題です。放蕩息子の姿は、神から貰う財産を自分の欲の為にすっかり使い果たし、その結果、自分を助けることが出来なくなった人の姿を示しています。酷い飢饉とあるような、予期しない自然現象に打ち砕かれた姿だとも言えます。

  しかし私たちは神から愛されています。いつでも、何がこの身に降りかかろうとも、神は私たちを助けようと待って下さっているのです。放蕩息子は、自分と闘い、勇気を奮い起こして父親の所に戻ったのです。この父なる神に私たちは応答し、応えて行きたいと思います。


         (完)


                                                2019年1月27日

                                                板橋大山教会  上垣勝





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