放蕩息子の譬え


     ホテル裏の見渡す限りの草原は広大でエスワイト・ウオーターの湖まで続いていました 
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                                                    神のおもてなし (中)
                                                    ルカ15章20節




(前回からつづく)

  「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、深い憐れみの心に満たされ、駆け寄って息子を抱きかかえて接吻した。」先ほど読んで頂いた20節は、父親が息子を迎えた時の姿です。

  譬え話ですが、一篇の小説のように真に迫るものがあります。まだ遠く離れていたのに、父親は息子に気づいたのです。息子の出奔後、何回となく、息子の帰る姿がどこかにないかと、農場近くの見晴らしのきく高台に立って見回したことでしょう。1年たち、2年たち、3年たっても、便りもない。夜はだんだん眠りが浅くなり、食欲が落ち、元気をなくし、家にいても外にいても言葉がめっきりと減り、うつむき加減になったでしょう。げっそり痩せて急に老け込んだかも知れません。

  この日もひとりぶらっと高台に行ったのです。今ではそれが日課のようになっています。すると誰かがヨタヨタと長くうねった坂を上って来るのが見えました。足取りは重く、どこか寂しい一人旅の男です。放浪者かも知れません。小さな包みを肩に、前屈みにノロノロ坂を上って来ます。近づくにつれ、どこか見た姿です。少年時代に叱られてトボトボ歩いていた次男の体つき、足の運び、面影にそっくりです。よく見ると、あの息子です。

  年取った父親は急いで緩やかな坂を走り降りました。そして走り寄って息子を抱きかかえて接吻したのです。

  手を差し出し、腕を広げて息子を抱きますと、逞しかった息子はゲッソリと痩せ、小柄になり、父親の腕に軽々収まったのです。やつれて色つやをなくし、髭(ひげ)はボウボウ、目は落ち込み、肌はどす黒く、履物もなく裸足で、服は擦り切れてボロボロです。

  父親は、「憐れに思い、走り寄って」息子を抱きしめました。父親の心臓はひっくり返り、胸がつぶれんばかりだったでしょう。「お前か、本当にお前か。よく帰って来た」と言って、抱きしめた後は言葉になりません。

  暫くして息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と、涙を流しながら言いました。ウソ偽りではありません。心の底から父に詫びたのです。いや、本当に詫びたかどうかは、まだ本当は分かりません。

  しかし父は僕たちに、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい」と言いつけ、「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って、祝宴を始めたというのです。

                                 (2)
  ルカ15章には3つの譬え話が出てきます。最初は「いなくなった1匹の羊の譬え」、次は「なくなった1枚の銀貨の譬え」、おしまいが今日の「放蕩息子の譬え」です。それぞれ、羊飼い、主婦、父親が出てきますが、それらは神を指しています。イエスは、神はどういうお方かを3つの譬えで語られたのです。ではこの父親の姿は、神について、神の愛について何を教えているでしょうか。


         (つづく)


                                                2019年1月27日

                                                板橋大山教会  上垣勝





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