あれかこれかを迫られて


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                                                私の内で生きるキリスト (中)
                                                ガラテヤ2章17-21節



                                 (2)
  彼は今日の所で一体何を言いたいのでしょう。前回申しましたように、彼はトルコ北方の地にあるガラテヤ教会の、キリストを信じたギリシャ人や現地人たちと、そこに住むユダヤキリスト者たちが、何の気兼ねもなく互いに食事をしたり聖餐に一緒に与ったり、日常の様々な交わりを、神の家族としてあらゆる隔ての壁を越えて自由に交わることを恵みとして捉えました。キリストが来られた意味は、色々な隔ての壁を超えるようにして下さった所にあると考えていました。

  ですから、ユダヤから厳格な人達が来たからと言って、ペトロやバルナバのように異邦人らとの交わりを避けるとなれば、キリストが来られた意味が半減します。キリストを信じる必然性はなくなります。キリスト教の存在意義はありません。パウロはそう考えたのです。

  それに対して、キリストを信じる信仰によって、誰でもそのままで義とされるとなれば、民族の壁、国家の壁、男女の壁、自由人と奴隷の壁、数々の隔ての壁を越えていくことが出来ます。そこにキリストが来られた意味があるというのです。

  繰り返して申し訳ありませんが、先週話しましたが、ペトロはパウロがいるアンティオキアに来ました。来た当初は、パウロと共に民族の壁を越えてギリシャキリスト者らと家族のように交わり、食事も聖餐も一緒にしました。ユダヤの律法や規則にこだわらず、キリストにある神の家族として楽しく交わったのです。

  ところがユダヤユダヤ教の本拠地です。そこでは、キリストの弟子たちは、神殿を冒涜せず律法に違反しない限りは、キリストを信じることが許されたのです。ユダヤ教は、この2つを守ることを厳格に要求したからです。

  そのため、クリスチャン同士の、民族を超えた心の籠った互いのもてなしが、ユダヤ教が唱える民族の壁に阻まれてそうになったのです。もし非ユダヤ人がイスラエルの祝福に与りたいと思えば、割礼を受け、律法を順守して、ユダヤ教徒になって与ることは出来ましたが、それでは信仰によってのみ救われるという民族を超えるキリスト信仰は蒸発してしまいます。ユダヤ人も異邦人も皆、イエスによって本質的に神に義とされているという喜びが失せてしまうのです。

  ところで、ユダヤエルサレムに住むキリスト教徒たちにして見れば、ユダヤの官憲や住民と良い関係を保つことは不可欠でした。ペトロがエルサレムを離れた後、ヤコブエルサレムの責任を持ちましたが、彼はユダヤ人と他民族の境界線を無視すれば、神殿当局者や住民に不安を与える事をよく知る立場にいたのです。――お分かりになるでしょうか。戦前の日本で、天皇とキリストとどちらが上かと、踏み絵を迫られて、キリストと言ったために投獄され、獄中死した牧師たちもあります。今、中国政府のキリスト教に対する圧力は強く、ある地では教会の十字架を下ろさせて、そこに共産党のキャッチフレーズを掲げさせられることもあるようです。そうした場合、信仰者はどう生きればいいのでしょう。それがエルサレムユダヤで起こっていたのです。――このことが、彼が使者を送って、アンティオキアのクリスチャンたちに用心深くあるように求めた理由でした。それを聞き、ペトロとバルナバは異邦人たちとの会食をやめたのです。そして、ユダヤキリスト者との交わりを望む非ユダヤ人は、割礼を受け、律法が規定することを実行して、「ユダヤの習慣に従う」ことが強要したのです。

  それにも拘らず、パウロがペトロに強く抗議したのはこの点でした。彼にとっては、事は慎重さや勇気の問題でなく、福音そのものが危機に晒されることだったからです。イエスかノーか、キリストは全人類との新しい連帯をもたらすために来られたのかどうかでした。

  この事を憂えたパウロは、生まれながらのユダヤ人も異邦人も、どのように救われるのか。信仰義認によってか、行為義認によってかという議論に発展させてこの手紙に書いたのです。

  律法を守り実行することでなく、イエスとの出会いこそが、神によって義とされる確かさを与えるのでなかったのか。キリストを信じることだけで、神に赦され、救われ、喜びと平和が与えられるのであって、キリスト者とは赦された罪人であると考えたのです。赦された「罪人」であるが、「赦された」罪人である。

  そして、彼は自分自身の事を出して、私はキリストと一緒に十字架に付けられました。私はそこで死んだのです。もはや律法の下に生きてはいません。律法は生きている人にだけ妥当するが、私は死んでいるのだから、もはや私には律法は通用しない。だが今も私は肉体をもって生きているが、これは、私自身の命ではなく、私の中に生きておられるキリストによって生きているのだ。重要なのは、義しい者と義しくない者との間に、律法が立てた壁ではない。最も重要なことは神の恵みのみであるなら、「すべての人類の間の新しい連帯が可能になる」(テゼ共同体)と考えたのです。


       (つづく)


                                                2019年1月20日



                                                板橋大山教会  上垣勝





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