教会に男性が少ないわけ


ワーズワースが通った1585年創立のグラマー・スクール。机に石板、左の机は小刀で掘った落書きだらけ。
まるで立派なレリーフでした。そんな中、 Small service is true Service while it lasts. が心に留まりました。
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                                                私の内で生きるキリスト (上)
                                                ガラテヤ2章17-21節



                                 (序)
  聖書は自分で読んでいるとそんなに気づかないですが、他の方が聖書の話をして下さると、胸にぐっと入って来ますね。先ほど、子どもたちに「善きサマリア人」の話をして下さいましたが、そうだった、そうだったと、イエスから問われているのを感じました。それと、Aさんと打ち合わせした訳でありませんが、私が取り上げる個所と関係がありますので、大変有り難いことです。

                                 (1)
  さて、今日の個所は難しいです。昨日、妻は今日に備えて何度かここを読んでいて、ここは難しくて分からない。寝たらいけないと、自分自身に言い聞かせていました。いつもは寝ても、今日は寝たらいけませんよ。

  先週学んだ15、16節で、キリストによって明らかにされた事は、律法を実行することによっては義とされないということでした。むしろ、いかに自分は罪人であるかを、明らかにされるというのでした。また私たちは、「ただキリストへの信仰によって義とされる」のだということでした。

  この事を知る時、私たちの心に平和が訪れ、喜びが生まれる。そして神との平和が生まれ、自分との平和が生まれる。ほっと息をついて安心して生きることが出来るようになるということです。自分は存在してよいという大きな肯定です。これは、自分で自分を義とし、肯定しているだけでは決して得られない、心の平和であり、喜びです。

  このように、キリストに出会う時、先ず最初は自分の罪の姿が明らかにされるのです。では、「キリストによって義とされるように努めながら」、そこで罪の姿が明らかにされるというのであれば、「キリストは罪に仕える者ということになる」のかと、17節は問うているのです。

  聖書は読めば読むほど、自分の罪が指摘されて苦しくなる。そんな人があります。女性より男性が教会に来ないのはどうしてか、前から考えています。聖書を読んで――大抵マタイ福音書から読み始めますが、系図の所などハードルがありますがそれはいいんですが、すぐに山上の説教があります。すると、「情欲をもって女を見る者は心の中で姦淫をしたのだ」という言葉が出てきます。あそこで男性は自分の罪が強く指摘されて怖く思うのでないか。イエスが寄りつき難く思って去って行くので、男性が少ないのでないかと思っています。 

  青年時代の私も、聖書から先ず罪を指摘されました。今考えればそれでいいのです。キリストの恵みを知れば知るほど、自分の罪に泣きました。人とうまく行かない。赦せない。ムラムラと起こる敵意、妬みもある。しつこい競争心。自分にあるどうしようもないドス黒い罪の姿でした。その頃、説教を聞いて何度泣いたことでしょう。

  当時、私は会社の寮に入っていましたが、バッハの管弦楽組曲が好きで、「G線上のアリア」が入っている4つの組曲ですが、あの組曲を聞きながらも泣いていました。今は涙も出ない人間ですが。なぜそんなに泣けたのか。こんな惨めな者の心に透徹した美しい美が語りかけるからです。美というのは、いかなる心の厚い壁も超えて美しい響きで囁きかけながら入ってくるのです。それは、キリストの福音が私の心の奥深く迄、優しく透徹して入って来て、優しく心の戸を叩くのと同じでした。

  ですから、私の罪が顕わにされるからと言って、キリストが罪に仕えている訳ではありません。私が罪に仕えているのを、キリストが顕わにして下さったのです。パウロが、「キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない」と語る通りです。

  彼は更に、「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります」と言います。違反でなく、「違犯」者と言っています。

  「自分で打ち壊したもの」とは、ユダヤ教徒時代の「律法の実行によって義とされる」という古い考えでしょう。自分はその考えを再び建てることはない。そんな事をすれば、自分が自分の「違犯者」になると言うのです。

  キリストとの出会いで彼に起こったのは、「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません」という事でした。

  自分は既に自分に死にました。キリストご自身、ユダヤ教への違犯者として呪われて十字架に付けられましたが、自分も律法に従う生活を捨て破ったので、キリストと共に十字架に付けられ、律法に死んだのです。自分も律法に違犯したから死んだと語るのです。

  ですから、今、生きているのは、もはや古い私ではありません。古い私は死んだのです。今、私が肉体において生きているのは、あの古い私でなく、「キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と語ります。

  彼は、キリスト者としての自分を、一度十字架で殺された自分と、キリストが自分の中で復活され、活けるキリストが私の中で生きておられる自分と。新しい自分と古い自分を、はっきり区別して考えています。

  その過去と現在を決定的に隔てるのは、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」キリストであり、このお方に対する「信仰によるものです」と語ります。そして彼は、キリストへのこの信仰に堅く留まり、「わたしは、神の恵みを無にはしません」とキッパリと語るのです。そして最後にもう一度、「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」と、信仰によって義とされる信仰義認が大事であって、行為義認ではない。律法の実行で義とされるのではないと、釘を刺すのです。

       (つづく)


                                                2019年1月20日



                                                板橋大山教会  上垣勝





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