キリストによる義と平和と喜びと


          再び湖水地方、ホークスヘッドのグラマースクールに戻りました。
          7才で母を13才で父を亡くしたワーズワースが8年通った学校です。
          これは評議委員に宛てられた4人の慈善学校の少年への支援要請の書類です。
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                                                    信仰による義 (下)
                                                    ガラテヤ2章15-16節


                                 (3)
  ここで疑問が生まれると思います。善い行いは不要なのか。しなくていいのか。キリストを信じるだけでいいのなら、キリスト教は薄っぺらで、怠惰で、甘やかしになり、堕落しないか。無律法になってしまわないかといった批判です。

  色々なことを省いて端的に言えば、何もしなくていいのです。どんな業も不要です。ただイエスを私の主、世界の主として迎え入れればいいのです。私のために十字架に就くまで苦しみ、傷つき、愛して、代わって罪をかぶって下さったと信じればいいのです。「義とされよう」として、行いに励むのはお門違いです。平和は来ません。

  徹頭徹尾、何もなしに、です。徹底的に何もなしに、私たちは神に赦され義とされます。誰も赦してくれなくても、相手にされなくても、キリストによって徹底的に赦され愛されています。キリストの平和は喜びと共にそこに来ています。

  そこまで徹底的に赦されるから感謝の応答が生まれるのです。そこまで徹底して赦され愛されなければ喜びは起こりません。何もなしに赦されるから、冒険してもこの方のためなら進んで行おうと、自発的な善き意志が生まれます。誰に対して行うのでもなく、自分の為に行うのでもなく、ただこの方のために行う意志が生まれます。神の前での「個」が生まれるのは、これ以外によってではありません。個人の確立とは真に神と顔と顔を見合わせ、1対1で生きることで始まります。

  ですから教会に来る人はどんな人も赦されています。この人は気に食わない。この人は教会に合わない。私たちはそんな信仰の番人になっちゃあ困ります。不届きな人も事実いますが、イエスと差し向かいで愛されているのを彼が自分で認識することなしに、彼に本当のものは生まれません。

  それに対して、律法の実行によって義とされたいとなればまた義とされるとなると、不純なものが付いて来てうまく行かないのです。どうして律法の実行では義とされないのか。

  たとえて言えば皮膚に湿疹ができると無性に痒いです。思いっきり掻きたくなります。血が出てもいい、無性に掻きたくなる。その痛痒いのがたまらなく快感なのです。ところが快感を味わった後は、当然湿疹が悪化します。自分で恵みを勝ち取ろうとするのも同じ結果になるでしょう。たとえうまく治ったとしても、それは自分で自分を義とする自己義認を増し加えて、鼻高々になるのが落ちです。神への感謝の義ではありません。自分の義です。

  1つの具体例を申し上げます。これもうまく当てはまるか心もとないのですが、考える一材料です。

  東京でなく他の県ですが、ある教会に伝道師が赴任しました。若い伝道師でなく60過ぎの方です。優秀な人で、大会社で重役までし、ある大きな教会の建築委員長をして、皆を引っ張って立派な新会堂を建築しました。その人が第2の人生は牧師になろうと、神学校に行ってある教会に伝道師として赴任したのです。

  元々優秀ですから、テキパキと仕事をして教会を引っ張ってくれました。役員たちはいい先生に来て頂いたと喜んでついて行きました。いつも伝道師にスポットライトが当たります。主任牧師にはスポットライトが当たりません。教会は婦人が多いですから、当然婦人たちに人気です。おまけに頑丈な男らしい人でハンサムでもあります。

  何年かして、実業界だけでなく教会でも成功を収めたように見えました。ところが彼の魅力的な実力が落とし穴になったのです。教会のある婦人と出来てしまった。その後の事は申しません。

  彼は教会成長とか、素晴らしい仕事ぶりという「律法の実行」に嵌(はま)ったのです。それを颯爽と見事にやっていく彼に、女性の方も心惹かれて惚れたのでしょう。普通の恋であって、不倫でなければよかったのですが、2人はこっそりそうなってしまった。

  実力ある素晴らしい牧師。善い行為という「律法」に嵌り、それが「義」だと錯覚したのでしょうか。不純さが生まれて命取りになった。信仰義認とか行為義認とはちょっとズレルかも知れませんが、微妙に関係しています。

  むろん再出発するチャンスは残されています。60代でも大丈夫です。真実に砕かれ、悔い改めて再スタートすれば、却ってそこから内容ある信仰者になるかも知れません。ですが人間をなめたり、教会をなめたり、自分をなめたりしていると、再起不能になるでしょう。この世ではやり手でも、キリストの下では様子は違うのです。

  私たちは何もなしで義とされたのです。何もなしでいい。それでキリストの下で平和です。この平和をもって、「ただキリストの栄光のため」に実行すればいいのです。ただ福音を語ればよかったのです。感謝の業。感謝をもっての仕事。ただ神の愛に喜びをもって応答する業であればよかったのです。だが、業で義とされようと余計なことをしてしまう。そこに落とし穴があります。律法の実行によっては義とされず、ただキリストを信じる信仰によって義とされる。適切な実例になったか怪しいですが、私たちは、この事をしっかり覚えましょう。


       (完)

                                                2019年1月13日



                                                板橋大山教会  上垣勝





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