真っ白な罪、真っ黒な罪


テゼ共同体にやって来た若者たち。テゼ共同体のブラザー・アロイスさんの2019年の手紙は下をご覧下さい。
             https://blogs.yahoo.co.jp/ueg_ka4142/MYBLOG/yblog.html
                                                右端クリックで拡大
                                ・






                                                    信仰による義 (中)
                                                    ガラテヤ2章15-16節


                              (序2)
  久しぶりでしたが、子どもたちとの礼拝は楽しいですね。さて今日は、信仰による義というキリスト教信仰の中心的な事柄に触れようとしています。説明部分が長く少し難しくなるかも知れませんが、出来るだけ聖書の流れに沿ってお話します。

  ガラテヤ書は、パウロがガラテヤという今のトルコの北方地方の、パウロが開拓伝道した教会に送った手紙です。そこはユダヤから遠く離れていますから、異邦人のギリシャ人や現地人を中心にユダヤ人もいた教会だったと思われます。

  ところがパウロが去った後、ユダヤの伝統を重視するユダヤキリスト者たちが来て、パウロは間違った福音を説いている、彼はイエスの直接の弟子ではない。イエスユダヤ人だし、ユダヤからキリスト教は始まったから、ユダヤの伝統である割礼を受け律法を守らなければ救われないと、パウロを否定して割礼の必要性を強調したのです。

  ガラテヤのクリスチャンたちは、権威をチラつかせて舌鋒(ぜっぽう)鋭く語る彼らに押されて、遂にパウロが説いた福音から逸れて、割礼を受けそうになりました。

  それだけでなく、2章11節以下では、イエスの愛弟子(まなでし)のケファ即ちペトロが、パウロがいたシリアのアンティオキアに来て、アンティオキアの異邦人キリスト者たちと食事もして親しく交わり、まるで異邦人のように振舞ったのですが、エルサレムヤコブのもとからユダヤの伝統を重視する厳格なユダヤ人たちがやって来ると、彼らを恐れて、異邦人キリスト者たちとの交わりから身を引いたのです。

  元々厳格なユダヤ教徒は異邦人と食事や交際を一切しません。ところがやって来たユダヤキリスト者たちを恐れて、ペトロがこれまで自由であった異邦人に、割礼が必要だと説き始め、バルナバまでがそうした。

  それを見たパウロは皆の面前でペトロを叱りました。「あなたはユダヤ人であるのに、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活している。なのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」かなり激しい口調です。「ユダヤ人のように生活する」とは、割礼を受け、ユダヤの律法に従った生活をすることです。

  パウロからすれば、そんなことをすれば、キリスト教ユダヤ教の区別はなくなり、キリストは不要です。何のためにイエスが十字架で死ななければならなかったか、十字架が無意味になり、イエスは無駄死にしたことになるでしょう。

  そこで彼は、キリスト教の中心的メッセージ、「信仰による義」を明らかにしようと努力したのです。今日の個所は、その論争の中で書かれています。

                                 (1)
  先ず15節は、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と言います。

  異邦人、特にギリシャ人の罪は非常に明らかだったようです。彼らは大っぴらで殆ど罪を隠そうとしないのです。アフロディテを祀ったり、ビーナスを祀ったり。これらの女神は性を謳歌する神々です。今の日本は性の商業化が過剰で、それを表現の自由だと言っています。またバッカス、酒の神を祀ったり、コリントの神殿では繁殖の神を祀られて、神殿に沢山の巫女さんがいて、夜のなると大っぴらに男性の相手をするのです。それに好戦的な軍神も祀られていました。日本で言えば靖国神社です。大っぴらな戦争の神々です。

  ギリシャ人は解放的で、ローマ書にありますが、男女の自然の関係だけでなく不自然な関係、それに不義や悪やむさぼり、悪意、妬み、嫉(そね)み、殺意、不和、欺き、邪念、そしり、侮り、高慢、不誠実、無情、無慈悲。何でもあれで、寛容と言えば寛容、ルーズと言えばルーズ。自分でそれを行うだけでなく他人に勧め、自他共に是認する始末だったようです。

  どういうことでしょう。ここにあるのは、明白なあからさまな罪。真っ黒けの罪です。

  それに対してユダヤ人らは、生まれた時、誕生の時から律法を厳格に守ります。規律正しい生活が彼らの誇りでした。ファリサイ派などは一分たりともスキがない。そのためギリシャ人らを見下げ、自分らを誇ったのです。

  即ち、ギリシャ人の罪は、誰にも分かる真っ黒な罪ですが、ユダヤ人の罪は、誰にも分からない真っ白な罪です。白く塗りたる墓。外観は白く清潔です。だが内側は人骨が一杯、不潔です。自分たちは絶対正しい。真っ白だ。潔白だ。自分たちは特別神に選ばれた選民、神の民である。神に義とされていると自認することから来る誇りです。内に起こる傲慢。そうなると偽善が忍び込みます。自分たちは何が正しく、何が間違いか、小さい時から知っている、見えると言い張る罪です。

  パウロはかつて、このユダヤ教の一番厳格なファイリサ派に属し、キリストに敵対して迫害の息をはずませ、クリスチャンをひっとらえて投獄していました。「神に対する誤った熱心のせいで何も見えなくなっていた」とルターは書いています。この恐ろしい罪が、最高の義であり、神の喜ばれる最高の奉仕だと錯覚していたのです。彼は自分の姿が何も見えなかったのです。

  彼がダマスコ途上でキリストの光に撃たれ、突然目が見えなくなった事件は、彼は見えると言い張っているが、実は見えない人間だということを神に示された事件であったかも知れません。


       (つづく)

                                                2019年1月13日



                                                板橋大山教会  上垣勝





  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・