知恵の源へ旅しよう


                       戻って来たアガペーの像。19年元旦の朝。
戦後間もなくから東京駅大手町広場に建っていたアガペー像がいつの間にかどこかにしまわれてしまいました。
  だが昨年、長く隠れていたアガペー像が再びひっそり姿を現しました。この像が広場に姿を現わす時代は、
      社会にアガペー(まことの愛、神の愛)が失われているぞと警告しているかのようです。   
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                                                  知恵の源へ旅しよう (下)
                                                  箴言1章7節 




                                 (3)
  次は18章に入り1節です。「離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。」よくぞ言ってくれたと思う人もあるでしょう。この場合、離反する者は真理からするのでなく、もっともな理屈をつけて寝返るのです。だが、いかに巧みにやっても、理由はやがて知れます。私たちが経験することです。多くはどっちが得か、利害関係で判断しています。自分の欲望で動いています。生き方の根本が間違っているのです。

  2節、「愚か者は英知を喜ばず、自分の心をさらけ出すことを喜ぶ。」色々と言いたい放題をしゃべります。だが心をさらけ出しているだけで、人を励まし、人の徳を高めることにならない饒舌です。多くは自己中心です。愚かさを露呈して、英知がないのです。社会への甘えでもあります。

  なんか、新春から、辛辣な事ばかり言っていますが、私が言うのでなく箴言が言うのです。これらを人でなく、自分に言い聞かせる言葉として読まないなら、尊大な人を作るだけで意味は半減します。

  3節、「神に逆らうことには侮りが伴い、軽蔑と共に恥辱が来る。」神に逆らう。神を侮る。すると何故か、尊大になり、自分が法になり、暴君にもなり、やがて軽蔑され恥辱が来ます。神に逆らうと、なぜか謙遜さを失います。21章7節に、「神に逆らう者は自分の暴力に引きずられて行く。正義を行うことを拒んだからだ」とあります。

  4節、「人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。」まさに他人の口の言葉は、深い水のようです。その口から、自分と正反対の考えが飛び出てくることもあり、思わぬ朗報を聞く場合もあります。だから初対面の人にはやはり気を使います。特に知恵の言葉が発せられる源は、大河のように深く悠々と流れています。

  8節、「陰口は食べ物のように呑み込まれ、腹の隅々に下って行く。」陰口は特別うまい食べ物です。腹の奥深くに染みこみ、忘れ難い味として残ります。「呑み込まれ」とあるように、陰口を一気に鵜呑みにする人が多いのです。陰口は、話半分、いや、それ以下で聞く必要があります。17節には、「訴えごとを最初に出す人は正しく見えるが、相手方が登場すれば問いただされるであろう」とあります。

  9節、「仕事に手抜きする者は、それを破壊する者の兄弟だ。」手抜き工事をする者は、建設するように見えて破壊する仲間となります。箴言は日常生活や労働の事まで及んでいます。

  12節、「破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。」心の驕りが破滅に先立っているのです。それを知った時は、後の祭りです。だから知恵の源である主を畏れ、謙遜に生きたいのです。

  24節、「友の振りをする友もあり、兄弟よりも愛し、親密になる人もある。」世には見せかけの友、振りをする友があり、兄弟以上に親密になり、裏切らない友もいます。この場合も、受けるよりも与える方が幸いです。

  19章3節、「人は無知によって自分の道を滅ぼす。しかも主に対して心に憤りをもつ。」自分の無知が原因で試練に直面しているのに、主に対して憤る。次から次へとうまく行かないと、神をなじり、憤り、恨みすら持つ。それはお門違いというものです。

  19章17節、「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」憐れみ深い人は何と幸いか、とイエスは言われます。弱い者を憐れむ。彼は神から憐れみを受けるでしょう。主に貸すと行かないまでも、主に貯金する人になりたいものです。貸す以上に、私たちはこの命と人生、多くのものを神から貸与されて生きています。

  以上、知恵ある者と愚かな者。主を畏れる者と侮る者が出てきました。では、私たちは主を侮る者や愚かな者を侮っていいでしょうか。旧約聖書ですからそんなそぶりもあちこちで見て取れます。だが、本当は、私たちも罪の中にあります。時に謙りますが、時に天狗になります。表には出しませんが、心の内で天狗になって誰かを裁いています。本当の謙遜ではないのです。本当には神を畏れていないのです。誰かを馬鹿にし、心の中で裁いている。ここに救われない傲慢な自分の姿があります。

  一体、どうすればいいのでしょう。こんな者を救うために主は私の心の戸口を叩いておられるのです。暗い部屋の戸を開いて、光の主をお迎えしましょう。

       (完)


                                                    2019年1月6日


                                                    板橋大山教会  上垣勝


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