柔らかな応答


 ホークスヘッドに今も佇むワーズワースが通った小学校は1585年創立。中々ヤンチャな少年だったようです。
            気の向くままゆっくり時間を取ってガイドのおじさんの面白い話を聞きました。        
                                               右端クリックで拡大
                                  ・



                                                  知恵の源へ旅しよう (中)
                                                  箴言1章7節 




                                 (2)
  1章7節の話はこれで終わり、箴言15章以下を飛ばし飛ばしで味わいたいと思います。

  先ず15章1節から4節。「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。」誰もが幾らか経験する一つです。相手を責めない柔らかな応答、柔らかく受け止め、相手を思いやる応答は確かに憤りを静めます。柔らかな応答は、自分は責められ困らせられていると考えないことによってなされます。あるいは、神が共におられるから恐れずにいると、受け答えに柔らかさが生まれます。被害者意識を募らせると喧嘩腰になり、被害者意識を募らせず穏やかに応答していくと、相手も気持ちに余裕が生まれます。反撃しようといきり立たないことです。反撃し、傷つける言葉は火に油を注ぎ、怒りをあおるでしょう。「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる」のです。今年、心に銘記したいことですね。

  2節、「知恵ある人の舌は知識を明らかに示し、愚か者の口は無知を注ぎ出す。」私は何度愚か者の口になって来たでしょう。思い出すと顔が赤くなります。知恵ある人は、別の視点から正確な情報や見方を提供して、これまで見えなかった側面を明らかにします。すると物事が急に明るみに出されて、正しく見えてきます。「知恵ある人の舌は知識を明らかに示し、愚か者の口は無知を注ぎ出す」のです。

  3節、「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる。」どこにも主の目は注がれ、悪人も善人も公平に見、悪人がなす善も(そうです。悪人も善を為します!)、善人がなす悪をも(善人も悪を為します!)見ておられるのです。公平に万人を見ておられ、神は色メガネや、曲がった目で見られません。それを知ると謙遜にさせられます。

  4節、「癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く。」傷ついた心を癒す舌です。誰もが癒しを必要としているが、癒しを与える舌は、命の木のように生き生き、青々と葉を茂らせ、人を元気に安らかにします。一方、邪まな舌は、人の気力を砕き、やる気をそいでしまいます。「癒しをもたらす舌は命の木。」大切です。

  次は15節以下、「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。」本当にそうだと思います。貧しい人も必要以上にしょげる必要はありません。自分の十字架をどう負うかが大切です。どっちみち負うのなら、朗らかに負いたいですね。

  16節、「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい。」これも本当にそうです。多くの遺産相続が今日、しばしば家族の争いの元にもなっています。財宝や資源は国家間の争いにもなります。

  17節、「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」これはまさにそうです。この方が肥満にならず、健康的です。

  次は31節、「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」似た言葉が19章21節にもあります。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」人の心には多くの計画や願望があります。この道を進めばこうなると予想して進みます。だがおっとどっこい、主のみ旨だけが行われて行くのです。最初は自分の計画通りに進みますが、いつの間にか、主のご計画に牛耳られて思わぬ方向に進んで行く場合が多くあります。波乱万丈とは行かないまでも、長い人生を振り返ると思わぬ所で転轍機が作動しているものです。ですから16章25節は、「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある」とさえ語るのです。むろん反対の場合もありますから、21章8節は「歩む道が曲がったりそれたりしていても、清く正しい行いをする人がある」と語ります。そうありたいと思います。

  次に17章に入って3節。「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。」古代に銀か金かを試すのは、るつぼや炉でした。だが、私たちの心は主が試されるのです。自分は試されないと侮っている人間こそ、主が試されているのです。主を信じない人もむろん現に主が試されています。

  17章10節、「理解力ある人を一度叱責する方が、愚か者を百度打つよりも効き目がある。」一度の叱責から学ぶべきです。なかなか感情は吹っ切れませんが、叱責を感謝して成長の機会にするのです。逆恨みするのは愚かです。百度打っても効き目なく、恨みだけが募るだけかも知れません。言っておきますが、ここで言われているのはパワハラではありません。

       (つづく)


                                                   2019年1月6日


                                                   板橋大山教会  上垣勝


  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif