幸せの最高の目覚め
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勇気ある女性 (2)
ルカ1章26-38節
(2)
さて今日の所には、神から遣わされたガブリエルとのやり取りが記されています。「『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」
別の訳し方をすれば、「喜びなさい。神の恵みを喜ぶ人よ。主が君と共におられる。」ここで言われる恵まれた人とは、恵まれた才能や財産を持ったり、恵まれた境遇の人でなく、神の恵みを喜ぶ人の事です。今あるのは神の恵みであると、今の自分、この自分に今注がれている神の恵みに目と留めて喜ぶ人の事なのです。不足に目をとめるのでなく、恵みの方に目をとめ、それを数える人です。
オリンピックが近いこともあり、「次は頂点に立ちます」とか、「メダルを目指します」という言葉をよく聞きます。そしてどの競技の選手もほぼ異口同音に同じ事を言っています。オリンピックを目指す選手が、あるいは大リーグで活躍する選手が、まるで人生のお手本であるかのような社会の取り扱い方に、私はずっと違和感を抱いています。何かが違う!狂っている!あまり強く言うと、こっちがおかしいということになりますが。
マリアは、他と競争して最後に頂点に立つ。そういう生き方とは無関係です。競争も比較もせず、貧しいながら、ただ今注がれる神の恵に目をとめて生きる無名の人です。そこに健全さがあります。
彼女は、「私は主のはしためです」と最後に語りますが、考えてみればこれこそ万人に通じる素晴らしい答えではないでしょうか。模範かも知れません。なぜなら、人は本来、天地万物の主である方の意志の中で生まれ生活している者です。この方と関係なしに世に生を享けた人はいません。もしそうなら、「私は主のはしため」、主に仕える僕ですという目覚めこそ、人の幸せの最高の目覚めでないでしょうか。
パウロが、「福音のために選ばれ、主の僕であるパウロ」と手紙で自己紹介していますが、マリアのこの言葉はやがてパウロの信仰に通じるスピリットと同じだと言っていいでしょう。
(つづく)
2018年12月23日
板橋大山教会 上垣勝
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