傷心の地が”聖なる地”でした


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                                                  歴史への神の介入 (下)
                                                  ルカ1章5-25節



  (失礼しました。来週アップするものの一部分をはやまって昨日アップしてしまいました――赤面!――。今日のが前回の続きです。昨日のは削除し、来週もう一度アップします。)



                                 (2)
  年が明けると、大山教会は60周年でもあり、将来に向かう計画もあり、新しい歴史を迎えることになるでしょう。必ずイエス様は最善の道を示して祝福してくださるに違いないと、私は楽しみにしています。

  私は今、アブラハム時代からイエスの誕生までの約1800年の長い歴史の中で起こった出来事を思い起こします。今から3800年も昔に始まった歴史です。

  その歴史はごく小さい1家族の移住から始まりました。アブラハム一家が故郷のカルデアのウルを出てハランに至り、父を看取った後、彼に栄光の神が現れて、「あなたの土地、親族を離れ、私の示す地に行きなさい」と言われて、肥沃な三日月形と言われる中東の地帯を南下し、カナンに移住したのです。だがそこでは、悲しいかな、財産も、「一歩の幅の土地すらも」与えられませんでした。

  しかし主は彼に、「やがて、土地を与え、死後には子孫たちに継がせよう」と約束されます。また、「子孫はエジプトに移住し、400年の間、奴隷として虐げられる」が、奴隷とする民を主は裁くこと。彼らはやがてエジプトを脱出し、40年間、砂漠を放浪してこの場所に再び戻って来て、主を礼拝すると予告されたのです。

  神はこうして、アブラハムにイサクを、イサクにヤコブを、ヤコブに12人の子たちを授けられます。だが末っ子のヨセフを憎んだ兄たちは彼をエジプトに売り飛ばします。それを契機に、一家の歩みは一変し、やがて中近東を襲った大飢饉の時に、エジプト王ファラオに次ぐ総理大臣になっていたヨセフが、父親と兄弟たち、この一家を大飢饉から救うことになるのです。兄弟の嫉妬と憎しみが原因でしたが、神は一足先にヨセフをエジプトに遣わして、アブラハムの子たちを守られたのです。創世記は大河ドラマのような歴史を記して、読めばグイグイ引き込まれます。

  だが時代が移って出エジプトの時代になると、ヨセフを知らないファラオがエジプトに君臨して、イスラエルの民は400年間、奴隷生活にあえぎます。彼らは激しい渇きと飢えを経験します。水の渇きや食べ物の飢えだけでなく、祖国を持たない者たちが異郷で虐げられる魂の飢え渇きであり、神への渇き、愛と正義への渇きでした。

  その頃、生まれたのがモーセです。しかしイスラエル人に男児が生まれればナイル川に投げ込めという王の勅令で、モーセは3か月両親に匿われましたが、やがて籠に入れてナイル川に浮かべられます。それをエジプトの王女が見つけ、王宮深くで密かに育て、エジプトのあらゆる教育を受けさせるのです。

  いかに細かい網目をもくぐって、神はなそうとする事をなして行かれるかということです。

  成人したモーセは自分と同族のユダヤ人を救おうと、虐げるエジプト人を撃ち殺します。だが同朋は理解してくれず、彼はミディアンの砂漠に逃れ、砂漠の祭司の娘と結婚し、羊飼いとなって生き延びました。

  そんな彼がシナイ山近くで羊の放牧をしていた時、荒れ野で柴が燃える不思議な光景を目にして近づきました。すると、「私はあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神」という声が聞こえ、おそれの余り震えていると、「履き物を脱げ。あなたが立っている所は聖なる地である」という声がしたのです。砂漠の荒れて何もない、ひそかに逃げて来た地が、聖なる地だというのです。このような事があって、彼は神に導かれて、イスラエルの60万の民をエジプトから導き出す人物になっていくのです。出エジプトの事件です。

  今、私は申し上げたいのは、私たちにも今、神が呼びかけて、「履き物を脱げ。あなたが立っている所は聖なる地である」と語っていらっしゃるのでないかということです。私たちは小さい群れです。繰り返し申しますが、2年程前には、礼拝の時に、「2人掛けでお願いします」と呼びかけることが何度もありました。ところがバタバタと元気な方々が召され、遠くに行く方々もあり、数年でこうなるとは思いも掛けませんでした。

  モーセは同朋の支援を得て、エジプトからの解放者として立とうとしていたのです。だが夢は破れて、ミデアンの砂漠に身を隠し、今はチッポラという女性と結婚してひっそりと生きていました。羊飼いに身を落とすとは、暫く前は思ってもいませんでした。彼は傷つき、傷心の現実を受け入れざるを得ない日々を過ごしていました。

  だが神は、そんな逃亡の身の傷心の彼に現れて、「履き物を脱げ。あなたが立っている所は聖なる地である」と語られたのです。

  私たちも今、群れが小さくなり傷心の人たちもいるかも知れません。だがこの小さい群れがいる傷心の地が「主の聖なる地である。」ここを置いて聖なる地はないし、これを寂しがったり、残念がったりしていてはならない。ここでこそ、履き物を脱いで、精一杯主をほめたたえて礼拝すべきだと主が呼びかけておられる気がします。

  モーセがそうであったように、この所で、主なる神が働いて下さる事を信じて前進するのです。それが今私たちの教会に、愛なる主、希望の主、信頼できる主が求めておられることだと思います。

  これは教会にだけ語られているのでなく、私たち個々人にも語りかけられていることです。「あなたの立っている地は聖なる地である。履き物を脱げ。その地こそ主なる神が出会われる聖なる地である。」あなたは色々なもので身を護っているが、真理と、真の生命との出会いを欠き、私と直接出会っていない。あなたの足を護るものを脱いで直接私と出会い、私の上に立ちなさい。あなたの生きている地、そこから今や神が新しいことが始められる。モーセのように逃げて来た地であっても、決断して主を迎え入れ、今からここで主に従いなさい。

  待降節第3週。主イエスが私たちの中にお生まれ下さる事を祈り求めるこの時です。主が私の内に来て下さる為にこそ、「履き物を脱げ。あなたが立っている所は聖なる地である」という言葉に耳を傾けて、力を尽くして、思いを尽くして、主を礼拝しなさい。そう語られていると思います。

  神は歴史に介入されます。世界の歴史に介入され、私たち個人の歴史にも介入されます。それは、思いがけない所で起こります。子どもなど生まれる筈がないエリサベツとザカリアに子どもが授けられ、その子ヨハネがキリストの道備えをしたのです。この福音の道、キリストの道が私たちにも起ころうとしているのです。

  今、世間では、南海トラフ地震という静岡から九州までの海底でM8ほどの巨大地震が20年、あるいは数十年内に発生する可能性があると警告されています。新聞はトップ記事で報道します。

  そのような恐ろしい予告に耳を傾けるのに、どうして福音の方に耳を傾けないのでしょう。しかし福音にこそ、私たちを生かす、喜びの人生へと変えていく最も大事な予告があるのです。

  「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」ここに私たちを生かす希望の源があります。

     (完)

                                                   2018年12月16日




                                              板橋大山教会  上垣勝





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