パスカルの慰戯(いぎ)


ヒル・トップのビアトリックス・ポターのお家には、ピーター・ラビットたちが住んでいそうな穴や野菜畑、農具小屋、
         生け垣や羊の放牧場などラビットたちが活躍しそうな大道具、小道具が揃っていました。
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                                                 地を超える福音 (中)
                                                 イザヤ55章1-11節



                                 (2)
  次の2節は、バビロニアユダヤ人の状況を語っています。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。」

  2600年前ですが、人々は国際間の巨大な悩ましい問題に翻弄され、何とか生き延びるために手を尽くしました。しかし、糧にもならぬもの、力にならぬもののためにどうして労するのか。自分の課題から逃げるために、根本的な解決に至らぬもので自分を慰めていてはならないと言うのです。

  皆さんはパスカルをご存知でしょう。彼は慰戯(いぎ)ということを言います。慰めに遊戯の戯と書きます。自分を慰める戯れです。遊びやかけ事、先週の聖書にあった深酒もそうです。おしゃべりも慰戯になり、仕事も戦争も慰戯になることがあると彼は言います。要するに、自分の十字架を負わず、「気を紛らわす」行為を、パスカルは「慰戯」と名付けるのです。人生を無駄に浪費していると彼は見ます。

  それに対して彼は、キリストへの服従と献身を重視します。キリストは十字架に進まれたのです。それは私のためです。私はそこまで愛されたのです。もしそうなら、キリストだけに十字架へ進ませていていいのかということです。そ知らぬ顔して生きていていいのかということです。

  そこでパスカルは、自分はこの道を歩んだ。そのため私の全力を投入した。だから君たちも、人間ならばこの道を歩んで下さい。全力投球で自分が担うべき道を進んで行って欲しいと訴えるのです。それがキリスト者として、また人間として進むべき道ですと言うのです。

  ただ私は、慰戯のような生き方をしながらもアンテナを張っていかに生きるかを懸命に模索している人たちがいる気がします。慰戯が一時の逃れの場や再出発の場として肯定的に働いている場合もあります。ミデアンに逃れたモーセのように、結果的には人生からのその逃亡の時期が、思索の時になり、飛躍の準備の時になった事が歴史の中に多々あります。だからあまり早急に裁くのはよくありません。私からのパスカルへの注文です。

  それにしても、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。」この言葉は胸に刺さります。

  例年のように「おおやま便り」を、氷川町を始め、仲宿方面、板橋方面、大山西町方面、双葉町、常盤台方面とあちこちに配りました。配っていると自転車がやっと通れる極めて細い路地があって、数軒行くとさらに右に曲がり、1軒先にまた路地があって曲がってもう一軒家があったりします。しかしまた、趣味のいいしゃれた門と玄関を持つ大きなお屋敷などもあります。田園調布に行かなくても板橋にそんなお屋敷街があります。広い趣味のいい花壇のあるお庭、家に入ればきっとハッとするような空間が待っているのでしょう。またほれぼれする若夫人、別棟には賢そうな老夫婦、仲のいいご家族、時代の先端を行くおしゃれなリビング、キッチン、家具、調度品、収納場所が広く衣類などどこにも目に尽きません。高級な名画などが数点掛かっている気がします。家の造りから想像できるのです。上流の人たち、偉い人達、少なくともお金持ちが住んでいるお屋敷街です。

  しかしもしかすると、家庭に入れば、私たちと少しも変わらぬ風景があるのかも知れません。ただ屋敷の見栄えはよく、風采は見事で、金に糸目をつけずに上品な趣味で心ときめかせるものが揃っているのですが、イザヤが語るように、「糧にならぬ下らぬもののために銀を量って払って」いて、人間の質においては何ら変わらず、人生の本質においては実にくだらない生活をしているのかも知れません。まさに慰戯に人生を費やしているのです。

  もしそうなら、そこから来るギャップによってこの人たちは一段と渇いているかも知れません。本当の水、魂を潤す水を求めているに違いないと思ったりしながらその町内を配布しました。

                                 (3)
  次に2節の半ばは、「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちと、とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」と呼びかけます。

  「私に聞き従えば」、私とは神を指していますが、私たちキリスト者にとっては、神でもいいですがイエスの言葉に従う事です。イエスは、私たちが直面する困難な状況の中で、傍らに来て、私たちと肩を組み、共に歩んで下さる方です。今は闇かも知れません。だが闇をも貫き、明るい朝に向かって共に歩んで下さるのです。真理であるお方が、私たちと肩を組んで安心を与え、平和を授け、慰め、自信を授けて下さるのです。

  このお方がいるから、私たちは安んじて生きることができるのです。私たちのすべての状況をご存じだからです。私たちの闇も光もです。渇きを覚える砂漠のような状況から、脱する道を共に歩んで下さるのです。だから私が直面する場所を否定したり、拒否したり、無視したり、逃げたりする必要はないのです。信仰を抱き、イエスに聞き従って、雄々しく、そこで生きればいいのです。イエスは担い方を教えてくださるからです。

  心の平和と救いは主の中にこそあります。喜びと安らぎは神から来ます。

  「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」

  注意深く私に聞けと呼びかけています。2度繰り返しているのは、主に耳を傾け、集中して聞くことがいかに大事かを言うためです。神の言葉を心から聞く。衷心から聞く。耳をそばだて、聴こうとして聴く時にこそ、魂に命を得るのです。

  最初に引用しましたが、イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られたのです。

  イエスから命の水を飲む者は、渇きが癒されるだけではないのです。その人の内から、「生きた水が川となって流れ出る」のです。

  「生きた水」とは活き活きと迸(ほとばし)り出て流れる清流です。自分だけが元気になるのでなく、人々にも元気を与え、生気を与える命の水が、「その人の内から流れ出す」と言われているのです。

  何と希望に満ちたことが約束されていることでしょう。キリスト者は自分だけが元気になる、そんなことだけを目指していません。その人の内から生きた水が流れ出て、人々をも生かすことです。これは、「今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう」という言葉とも関係があります。

  今、渇きを覚えている人たちは幸いなのです。その人たちは渇きを癒されるだけでなく、人々の渇きを癒す人として用いられて行く。渇きを癒された人は必ずそうしたことに用いられていくのです。渇きの辛さと、癒された喜びを知っているからです。イエスはそのような約束を授けて下さったのです。

  イザヤ書55章の言葉は素晴らしい預言です。そしてイエスがして下さったことは、その預言を更に遥かに超えて、私たちの将来に希望を与えるものです。


        (つづく)


                                                    2018年12月9日



                                              板橋大山教会  上垣勝





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