直葬に見える現代の砂漠化



門を入りヒル・トップの家に向かうアプローチの小道がのびていました。上が小道の右側、下が左側です。
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                                                 地を超える福音 (上)
                                                 イザヤ55章1-11節



                                 (序)
  今年のアドベントは自由に私が聖書箇所を選ばずに、日本基督教団が決めた箇所を採用してお話しています。今日は、そのアドベント第2週のみ言葉として選ばれた箇所です。どうして旧約のこの個所が待降節の福音なのでしょう。

  この全体から聞こえてくるのは、非常に新約的な福音のメッセージです。最初の段落も、次も、またその次からも、特に旧約聖書をご存知の方は、ここには旧約聖書とは思えない程の素晴らしい新鮮なメッセージが聞こえていることに驚かれるでしょう。

  しかも1節の、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」という言葉には、やがて約600年後、イエス様が群衆に、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られた、ヨハネ7章に近い精神が躍動しています。あるいは、「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」というヨハネ4章の言葉を思い出させます。

  このように、イザヤ書55章は約600年前に書かれた、新約的福音の断片と言えるでしょう。

                                 (1)
  先ず、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」とありました。

  渇きを覚え、こころ満たされない人は皆です。どんな人も、です。中東では水は日々の生存に関わる大変貴重なものですが、「水の所に来るがよい」は、「ここに水があるぞ」との呼びかけです。

  彼らは今、母国ユダヤから、遠く何千キロも離れたバビロンにいます。そこに連行され、強制労働に就かされているのです。自由に町を離れることも、他の職業に変わることもできません。

  戦前に朝鮮半島から――歴史の事実に目を留めますと――何と200万人前後が強制的に徴用されて日本に連行され、鉱山や鉄道敷設工事、港湾工事などの危険な場所で働かされました。長野の松代大本営の建設だけでも25万人もの朝鮮人が強制徴用されました。彼らは母国語を禁じられ使えば罰せられました。朝鮮では土地を没収され、名前も日本名に改名させられ、日本に連行されて辛苦の末に多くの人が死んだのです。その魂は激しく渇かざるを得ないのです。

  バビロンにあったユダヤ人らも異郷の地で、物においても、環境においても、人としての扱いにおいても、激しい渇きを覚える日々でした。そういう彼らにイザヤは、「ここに水がある。あなた方を癒すまことの水がある。ここに来て飲め」と指し示したのです。

  「銀を持たない者も」とは、もっとあからさまに言えば、「カネなき者も来たれ。ゼニなき者も来たれ」という事です。気前よく無代価で与えられるというのです。

  ただ、水だけでは水っ腹です。飢えは収まりません。そこで、「穀物を求めて、食べよ」、ゼニを払うことなく、「ぶどう酒と乳を得よ」と呼びかけます。ぶどう酒も乳も喜びをもたらし、滋養をつけて元気にします。

  「渇き」は、肉体的な渇き、心の渇き、霊的な渇き、社会的な渇きなど色々と多様です。ただ聖書はあまり細かい定義をしません。自分の自覚を超えて、非常に深い所から渇きが出ている場合もありますし、色々の原因が互いに関係し合って渇いていることもあります。

  東京に住む私たちは、砂漠に生きている訳ではありません。水が枯渇し、植物が育たず、小鳥も殆ど訪れない広大な岩砂漠のような所に住んでいる訳ではありませんが、砂漠のような大都会で、人はみな砂のようにサラサラした関係で、指の間から砂がこぼれ落ちるように、職場も、ご近所も、町内も、何かのサークルも、いつの間にかサッと関係がなくなって行きます。まさに砂漠です。その典型は近年多くなったお葬式の直葬(じきそう)に見られます。死ねば隣近所、職場、サークル、知人らも呼ばず、火葬場の窯の前に運ばれてごく身内だけで窯にくべる。その方の歴史も人生も足跡も悲喜こもごもあった人間関係も全くなかったかのような、無機質の砂のような扱いです。まさに砂漠化の最大の証拠ですし、それを良いこととしている所に最大の問題があります。

  「水の所に来るがよい」は、必ずしも物質的なものだけを指しません。むしろ霊的な水、救いの水。精神的な水です。当時、バビロニア文化は隆盛を極め、華やかに開花していました。だがそこに深い闇が、退廃が潜んでいました。そんなものでは決して魂に潤いを与え、精神的な力にならなかったのです。

        (つづく)


                                                    2018年12月9日



                                              板橋大山教会  上垣勝





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