死んでもなお語っています


         ヒル・トップのホテルに着くとコモンルームに通されお嬢さんから紅茶で歓迎されました(4)
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                                                 岩盤の上に建てる (下)
                                                 ルカ6章47‐48節



                                (3)
  48節の言葉にもう少し留まって聞きましょう。「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」

  イエスの所に行き、イエスの言葉を聞いて行う人は、地面を掘って遂に岩盤に達し、それを土台に家を建てた人だと言われるのです。「洪水」とあるのは、膨れ上がる、盛り上がるという言葉です。洪水はまさに恐ろしいほど盛り上がって襲います。昔、石神井川が氾濫した時、恐ろしいほどに高く盛り上がって周辺の家々を襲いました。「家に押し寄せる」とは、泥水が膨れ上がってドッと家に突進すること、ぶつかることです。この夏はそんな洪水の映像を何回も見て来ましたので、これ以上申し上げる必要はありません。

  だが家は「しっかり建ててあったので」、見事に建ててあってので、揺り動かすことができなかったと言うのです。そこまで堅固に建てられるものかと思いますが、これは譬えです。

  岩の上に建てた家は、堅固で洪水にも耐えうる建物に譬えられていますが、さて、これは今日の私たちがよく言う、自己実現とか、自分らしい生き方を掴むということと関係があるでしょうか。

  今は多くの人が自己実現とか、自分らしさ、自分のアイデンティティを持つこと。本来の自分になり、自分らしいものを掴んで生きることが最高の価値だと考え、それをいわば金科玉条のように人生の岩、岩盤のように考えている所があります。

  確かに自分らしく生きている時は、自由で伸び伸び出来ます。自分を押し殺していれば、窮屈で仕方がありません。絶えず周りの目が気になるという方がいますが、そんな緊張した生き方は本当にしんどいでしょう。その限りでは、自分らしく、自分の一番生き易い仕方で生きることが最高の価値であり、最も確かな、満足のいく生き方と言えるでしょう。

  ただイエスが言われる、岩の上に家を建てる生き方は、自己実現をも超えているものです。どう超えているか。それは、自己実現には、愛なき自己実現というのがあるからです。愛なき自己実現、自己中心的な自分らしさは、多くの問題をはらんでいるからで、それこそ浅さがあります。深く、深く掘って、岩の上に人生を築くのでなく、砂の上に家を建てるような所があります。

  ここで言われる岩とは、端的に言えばイエスのみ言葉ですが、そこまで限定しなくても、愛を最終目標にし、神を最終的に目指しての愛であること。それが地を深く掘り、岩盤の上に家を建てることであり、愛にまで掘り下げて、愛にまで届かして人生を生きることが大事だと言っていいでしょう。ですから、愛なき自己実現、自己中心的な自己実現は、まだちょっと表層だけを掘っただけで、もっともっと深く掘らなければならないのです。

  砂の上とは、自分の欲の上に家を建てることです。欲望という名の自己実現です。だがその地面を掘り進んで、もっと確かなものにまで掘り進んで、その上に自分を築かなければならないのではないでしょうか。

  先々週、永眠者記念礼拝の時に、かなり前ですが88才で召されたAさんの事をお話しました。長年、体の医者として働き、80代になって「心の医者」になる志を立てて神学校に行った兄弟です。

  あの後、Bさんからこんなことをお聞きしました。Aさんは東上線でどこか知らないが練馬方面から来られ、体を二つ折りにして歩いておられたこと。二つ折りで歩くので、人が気づかない、道端の小さな花や虫の事を取り上げてお話になったと言うのです。腰が曲がっているので、人と違うアングルで物事を見る。それが体の医者だけでなく、心の医者になりたいという事ともつながっていると思いました。大切なものの見方を教えられました。

  それでご長男をお訪ねして話しましたら、Aさんは何とJRの荻窪駅近くにお住まいで、荻窪からバスで成増に出て、東上線で大山に通っておられたというのです。体が二つに曲がればヨチヨチ、休み休み歩くしかありません。荻窪からだとバスの乗り換えがあります。雨の日、風の日、雪に日もあったでしょう。約2時間かけ、牧師になろうと教会に来られたのです。

  Aさんの兄さんは、今の東工大の学生でした。Cさんの大先輩です。その兄さんはやがて東工大をやめて牧師になる道に進み、しかし結核で倒れて亡くなられたのです。そんなこともAさんが心の医者を志す要因になったかも知れません。

  いずれにせよ、私はここに、深く掘って「み言葉を土台にして生きた」人がいたのだと思いました。体が曲がって苦労して生きても、なおかつ「雄々しく強く」み言葉に生きられた。どんな十字架を負っても、雄々しく強くあることができることを証しされたのです。

  ご長男は、父が懸命に努力して学んでいる姿に心打たれたと書いて来られましたが、み言葉を土台とし、信仰に基づいて生きる姿に、ご自分の父ながらどこか神々しさを垣間見られたのでないかと思います。

  しかし信仰を土台として生きても、結局死んだじゃあないか。牧師にもなれなかった。死ねば、おしまいだ。そう心の中で言う人があるかも知れません。いや、決してそうではありません。このような人は、今も信仰によって語っているのです。たとえ死んでもなお語る力を持っているのです。

  何事も悲観的にしか考えず、白々しい目で眺め、冷たい嘲りの目で見る。そういう愛なきものでなく、愛を土台とし、み言葉を土台として生きる。これは何と尊く確かな生き方でしょう。今日の聖書はそんなことを考えさせられます。


       (完)

                                                  2018年11月25日


                                            板橋大山教会  上垣勝



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