わが子をムチ打つ


                            ヒル・トップに着きました(2)        右端クリックで拡大
                                 ・


                                                 岩盤の上に建てる (上)
                                                 ルカ6章47‐48節



                                 (1)
  「狭き門より入れ」など、マタイによる福音書の「山上の説教」は有名です。しかし「平地の説教」という言葉はあまり耳にしません。

  平地の説教は今日のルカ6章17節から49節までにあります。17節以下で、イエスは「平らな所にお立ちになり」、民衆に教えられたとあります。口語訳では「イエスは平地に立たれ」教えられたとあり、この個所は平地の説教と呼ばれて来ました。マタイの山上の説教の短縮形で、幾つかダブルっていますから、同じ時のイエスの説教がルカではこういう形で書き留められたのでしょう。

  今日の個所はその平地の説教の終わりの部分です。イエスは、「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言う事を行わないのか」と問われた後、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」と語られたのです。

  「それを行う人」とは、イエスのみ言葉を聞いて、行う人です。自分は出来ないと言って撥ねつけず、み言葉に従おうとする。「皆」とあるのは、み言葉を行なう人は誰であってもという事です。

  「地面を深く掘り下げ…」とは、地面を掘り、深く掘り下げることで、単に掘ると言うのでなく、「深く掘り下げ」るとあるように、地面を掘り、それを更に深く掘り下げ、岩盤にまで掘り下げて、その上に家を建てる人を指しています。

  もう一度申しますが、深く、深く掘り下げて、更にどんどん掘ってという意味合いがここにあります。ちょっと掘って安易に建てるのでなく、まだまだ、まだまだと掘り下げて、岩盤まで掘り下げる意味です。

  なぜそうするのか。砂地にそのまま家を建てて酷い目にあった経験を持つ人が多くいるからです。土台をよく吟味しないで安易に家を建てた。そのため手痛い失敗を経験したのです。その痛い失敗を教訓に、堅固な岩の上に家を建てることへの勧めです。

  49節には、イエスの言葉を聞いても実行しない人の事が書かれています。「しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

  これは実生活で信仰が空文化している人を言うのでしょう。信仰が実際生活に少しも生かされないので何の力にもならない人です。ただこれは他人事でなく、私自身、自分が問題になって来ます。そんな生き方をしていると、「家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」とあるように、一切が失われると言われたのです。まさによそ事ではありません。

  イエスは、信仰が生活の中で実践され、具体化され、み言葉が受肉することを求められます。少なくともそれが真剣な祈りになるようにということです。イエスの言葉は時に痛いです。これなど、私自身痛いです。

  体にメスを入れるのは痛いです。手術は痛さを伴います。しかし患部が除かれて健康体になるにはどうしても手術が必要な場合があります。医者はそのことを告げてこそ信頼できる医者と言えるでしょう。手術が必要だと分かっていながら、それを告げない医者は信頼できない医者です。

  イエスは心と生き方を真に癒す医者だからこそ、痛いことを語られるのです。たとえイエス様の言葉によって、未熟さを指摘され、砂の上に人生を築いて来たことを痛烈に知らされても、イエスを恨むのはおかしいです。イエスは私たちをどの人よりも強く愛するゆえに、患部を摘出しようとされるのです。これまで怠けて、自分に勝てずに逃げ回って、イエスに従うことを後回しして来た自分に、「それは君、砂の上に家を建てようとすることだ」と厳しく指摘されたとしても、それはイエスの愛ゆえの叱責です。あなたが愛されているので叱られるのです。

  ヘブライ人への手紙12章に、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがない」とあります。しょっちゅうでなくても、ある時にはそのような自分との悪戦苦闘、血を流すような自分の罪への抵抗、戦いが伴ってこそ、信仰生活が健全に続けられるのです。いや、信仰者だけでなく人間として健全な人はそうします。

  ヘブライ人への手紙はまた、「わが子よ――私たちの事です――、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」と語ります。ドメスティック・バイオレンスでわが子へのムチ打ちを肯定しているのではありません。主から懲らしめられるということは、神から特別に顧みられていることです。特別目を掛けられているからだと語るのです。

  イエスの厳しさには愛があります。行なわない人を、後ろに置き去りにして行こうというのでなく、その人も救いへと、み国に連れて行きたいと願われるからです。

       (つづく)

                                                  2018年11月25日


                                            板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・