孤高の人でなく


             湖畔の町ボウヌスを歩く(8)裏山に上ると犬とウオーキングしている人がいました
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                                                     孤高の人ではなく (下)
                                                     マタイ9章9‐13節



                                  (3)
  これを耳にされたイエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。

  イエスはご自分を医者に譬えて、その行動を弁明されたのです。医者は病人を置いて逃げたりしません。病人に出会い、診察し、律法の禁を破っても患部に触れて治療します。それが使命です。

  イエスは彼らと交わり、その心の痛みに触れる中で彼らを癒し、彼らの考え方や生き方を変えて行かれました。

  ですからイエスは、自分の使命は丈夫な人の所でなく、医者を必要とする人たちに所に行くこと。旧約聖書にも、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と言われ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と明言されたのです。

  イエスは一線を画して高みに立たれません。徴税人や罪人の所に行かれるのです。癒しを必要な人がいれば、喜びをもって低くなられる。お高く留まられない。孤高の人でなく、民衆の間に入り、罪人と交わってその友となっていかれるのです。最初の紹介した方も、イエスに従い、体の医者であるだけでなくそれを越えて心の医者、色んな悩みを持つ魂の医者を目指された。

  上昇志向の人が社会に増えていますが、現実は経済状態がパッとしませんから、上昇は望めないでイライラする人が増えています。それと共に、大儲けする人とそうでない人の格差が広がっていますから、自分の夫はあまり給料が上がらないのに、ご近所の家のご主人や同級生のご主人はグンと上がったなどと聞くと、心穏やかでなく、イライラがさらに募るという始末です。

  幸福になりたい事への焦りみたいなものが若者の間にあります。その大抵は経済的価値観からくる幸福です。セレブの人達は高額診療の、保険診療しないクリニックに行ったりするので、自分もお金を出せば幸福になれるのにといった、安易なストーリーが作られてしまいがちです。

  先日、新聞のコラムに、イマヌエル・カントの言葉が引用されていました。「いかにして自分を幸福にすべきかでなく、自分をいかに幸福に値する人になるべきか」が肝心である。お金を沢山儲けた人が幸福に値するとすれば、何と貧相な見方でしょう。エコノミック・アニマルとはそういうことです。幸福に値する人にならなければ、この世的幸福や金銭的幸福をつかんでもつまらないということです。250年前のドイツの哲学者は、既に今の世の人々の心を見抜いていたのです。

  マタイは、自分のことを知り、自分に示されたイエスの信頼によって、人間として変えられたのです。直ちに徴税人をやめ、新しい門出に当たり、盛大な食事会を開いたのです。

  イエスの清さ、神聖さは、一線を画して孤高を保ったり、自己防衛的になることではありません。どんな人とも対話し、出会い、低く下って社会が禁じる不可触賤民とも食事して共に生きるといった、真の神聖さです。愛と慈しみの魂の医者。自分のことを忘れて重荷を負った人と共に生きられたのです。そこには自分を幸福にする幸福主義でなく、罪人の中に自由に入って彼らに幸いを作り出す真の権威、神にある喜びの生き方でした。

  イエスが用いられる治療法は人を愛する、愛による心と生き方の治療であり、自分を高く保つ神聖さでなく、低く下って蔑まれた人たちと連帯する神聖さでした。カントの言葉は素晴らしいです。しかしイエスは、自分はいかにして幸福に値する人になるべきかなども考えられません。そうではなく、不幸な人が幸いになることを目指す魂の医者です。その愛の真実さ、真正さ、混じり気のない愛は、最後にご自分を捨てて十字架につくまでの愛であると知って、私たちは心打たれるのです。

  イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。正しい人とは、尊敬できる、立派な、上品な、ある程度財産の有る、高い地位のある人を指しています。それに対して罪人。これは先程申しましたように、自分より卑しい人、賤民、社会からのけ者にされ、差別された人々です。

  イエスは金銭の多寡で、セレブであるかどうかで、学歴で、上品さで、差別されません。むしろ低く下って、人と大胆に交わって生きられました。その愛はアガペーの愛でした。

  その愛の真実、大きさに心打たれたのが、この先に召された人たちです。この方々は、キリストに魂を向けていました。このお方だけは、いかなる事があっても人を捨てることがないのを確信しておられたからです。この人たちは永遠にキリストの下にいるに相応しい方です。イエスは決して捨てられることはありません。


      (完)

                                            2018年11月11日

                                     


                                            板橋大山教会  上垣勝



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