世の薄情さに驚き


               湖畔の町ボウヌスを歩く(8)、あちこちでクロウタドりが歌います。
            下のサイトでお聞きください。ちなみにナイチンゲールの歌声もお楽しみください。
                    https://www.youtube.com/watch?v=C1RuceOkjhQ
                    https://www.youtube.com/watch?v=XrH12vux3Wk
                   ナイチンゲールは日本にもいてほしいなあと思います。
                                                 右端クリックで拡大
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                                                     孤高の人ではなく (2)
                                                     マタイ9章9‐13節



  注;うっかり(序)-2を抜かしてしまいした。これは前回のブログにアップしましたのでご覧ください。
    今回のブログは、(1)、(2)をアップしたので長くなりました。


                                  (1)
  さて、今日の聖書に、「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」とありました。

  収税所とは税金徴収の事務所ですが、今の税務署とはだいぶ違います。徴税人はユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税徴収のためにその手先になり、徴税を請け負って働いた人たちです。彼らは大抵不法な法外な取り立てをして、民衆の憎悪をかっていました。マタイはそのスタッフでした。

  税金を納めに来た人は収税所に立ち寄ります。しかし普段は収税所が近づけば顔をそむけてサッと通り過ぎたのです。顔をそむけることで、ローマ帝国への反感、徴税人への憎悪を表わし、プロテストしたのです。

  恐らくマタイも他の徴税人同様、定められた税金以上のものを取り立てていたのでしょう。大抵彼らはそんな事で荒稼ぎをしていました。

  ある建築関係の営業をしている人と話していて、1戸建て住宅の値段というのは相手のふところ具合を見て、落し所を見つけて決めると言っていました。恐ろしい事です。要するに舌先三寸で数十万円から百数十万円の儲けがあると言っていました。それでも不正とは言えない範囲内です。

  徴税人マタイもそんなことをして、いや、もっとボロイ事をし、ゴロツキを連れて強制取り立てさえして生きて来たのです。ただ彼の場合は、口には出さないが、内心はその不正を良い事だとは思っていなかったし、許し難い事だと思っていたのです。だが別の仕事に転職しようとしても、社会は甘くはなく、ズルズルと金儲けへとのめり込んでいたのでしょう。

  イエスが事務所前を通りかかった時、普通の人がするように顔をそむけるのでなく、カウンターに座っているマタイを目にされたのです。彼を見て、何か気になるものを感じられたのでしょう。用事もなく事務所に入り、マタイに声を掛けられたのです。これだけでも勇気が要ります。人は先入観から、わざと無視して通り過ぎます。だがイエスは無視されない。悩む者がいると知ると、声を掛け、対話し、交わりを結んで行かれるのです。

  どんな事を話されたか、詳細は書かれていませんが、イエスは彼に強い関心を持たれた。本人もまだ気づかない、内心では気にしているその魂の悩みを見抜かれたに違いありません。そして、「わたしに従いなさい」と言われたのです。

  マタイはけげんな顔で迎えたでしょう。これまで納税以外の事で入って来た人はいなかったからです。しかも彼個人に関心を持つ人が入って来た。彼の心には既に何かが芽生えていたのです。違法な税金徴収までして金儲けをすると言う、舌先三寸で商売をすると言う、この業界の在り方、いや、自分の在り方に不信を抱き、いつかこの業界から、いや、自分の在り方から足を洗いたいと考えていたのです。

  イエスとの短いやり取りの後、イエスが自分の心を知っておられ、自分の事まで考えておられる事。自分に従ってくるように招かれた時、この業界を離れるのは今だと感じたのです。金中心の人生、金儲けに偏った生き方に身を置き続けるのは、決して人生を豊かにしないと思ったからでしょう。イエスとの出会いで踏ん切りがついたのです。

  殆ど誰も、マタイなどを気に掛けていなかったのです。彼がどうなろうと自分と関係がないといった態度です。個人的な話をしても、それはつき合いでしています。誰も真剣に彼個人に関心を持ち、心配してくれる人はいません。人生は孤独でした。

  Aさんは長年ある美容室に通って馴染みのいいお客さんでした。気が大きい人で、おいしい料理を作ると持って行きました。Bさんは、人も技術もいいとAさんに勧められてそのお店に変わりました。髪の手入れをしてもらいながら、Aさんの料理はおいしい、いい人だ、教養がありあんな素晴らしい人はいないなどと美容室のおネエさんがよく話しました。Bさんも行くたびに親しくなり、色々な話に花が咲きました。人も技術もいいと思いました。ところがある時Aさんが急逝し、暫くしてBさんが美容室でAさんのことを話しました。そしたらどうでしょう。「ああ、そうなの。」それっりで何の心配もなく、どうして亡くなったかも聞かず、別の話に移ったのです。Bさんは人の心の薄情さにショックを受けて帰って来ました。これまで、商売で付き合いし、いろいろ盛り上がっていただけだったのです。

  しかし、イエスはマタイを見抜き、彼を招き、自分事のように愛し、自分に従って来るように招かれたのです。

                                  (2)
  次に、「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」とありました。

  徴税人と罪人が並べて書かれています。この罪人とは、窃盗や暴行などで犯罪を犯した罪人(ざいにん)の事ではありません。ある英訳聖書ではアウトカースト、賤民という意味に訳しています。当時のパレスチナで最下位に置かれて差別され、貶(おとし)められていた人たちと徴税人が同列に置かれていたのです。

  11節は、ファリサイ人らの言葉ですが、「なぜ、君たちの先生はこんな奴らと一緒に食事をするのか」という意味です。「こんな奴ら」です。食事は最も親密な交わりを意味しましたから、ファリサイ人はイエスの振る舞いに非常に驚くと共に、憤慨したのです。

  マタイの同僚や仲間たちは、イエスという優れた権威あるお方、噂(うわさ)の聖なるお方が、自分らと同じ徴税人マタイの友となったと知って、喜び勇んでマタイの家に大勢駆けつけたのです。予想もしていない事で、聞きつけて徴税人や罪人、アウトカーストの人らが各地から集まった。

  ところがそれを知ったファリサイ派の人たちは、罪人は罪人同士で食事すべきだ。皆から尊敬を受ける立派な人物は立派な人物たちと、同類の人たちと交流すべきで、社会常識の壁を越えて越境するのはけしからんと憤ったのです。

  イエスがもし尊敬されない罪人同然の人なら文句を言わなかったのですが、この時はまだ、彼ら自身も民衆と同様、イエスの権威ある姿に驚き、尊敬を持っていたので、そんな人物がこんな奴らと一緒に食事をするなんてとんでもない、社会道徳から外れると憤っているのです。

  そこまで憤ったのは、ファリサイ派は潔癖な人たちで、律法に従って孤高を保ち、罪人や穢れた者と自分らを区別して、指一本触れようとしなかったからです。それが人としても信仰者としても正しい姿だと考えていた。

  ただ遠慮から、イエスに直接言わず弟子たちに言ったのです。私たちは、一般民衆同様に君たちの先生を尊敬しています。聖なる方だと思い、罪人と交わるような方でないと思っていました。ところが、なぜ評判の悪い奴らと交わって、社会の規律を破られるのですか。彼らは不可触賤民ですよ。律法が交わりを禁じた者たちです。彼らと交われば、イエスは清さ、神聖さを危険に晒すことになりますよと、弟子たちに忠告したのです。


      (つづく)

                                            2018年11月11日

                                     


                                            板橋大山教会  上垣勝



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