人の魂の方向性を見る


              湖畔の町ボウヌスを歩く(8)、住宅を抜け裏山への道を辿りました
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                                                     孤高の人ではなく (2)
                                                     マタイ9章9‐13節



                                 (序)-2
  さて、先ほど子どもの祝福式がありましたが、今日はそれと共に永眠者記念礼拝です。最初に今日の礼拝で覚える、先に召された方々のお名前を読んで先ず偲びましょう。

        ……………………

  この中には、志半ばで伝道者になれなかった方もあります。懸命に学ばれましたが、ついに牧師になれなかったのです。途中で召された。88才でです。それまでは体の医者として長年働き、80代にして魂の医者でもありたいと、志を新たに神学校に行かれた方です。この方も含め、これらの方々は大切な私たちの信仰の先輩です。

  さて、先ほどお読みいただいた個所は、キリストとはどういう方か、何を説き、どう生きられたかを豊かに教えてくれる所ですが、また、私たちの先に召された方々は、どういうお方を慕い、どういう生き方を求めていたか。実際にどれだけ達したかということではありません。その魂は何を求めて生きたかを、教えてくれる個所だと言っていいでしょう。

  この方々はキリストに心惹かれた方々でした。イエスの愛の姿に尊敬を寄せ、ここにこそ本当の人の姿があると確信しておられました。それで、この道にご自分の魂を向け、イエスを信じて行かれました。

  私たちは人に接するとき、その方の魂が何に向かっているかを正しく理解したいものです。目にし、耳にするナマの姿だけでなく、その方の魂の方向性を見抜くことです。それが愛するということですが、これは血を分けた親子でも、夫婦でも、日頃、言葉は数々耳にしても、必ずしもその魂を知っていない場合が多くあることからも分かります。

  卑近な例で申し訳ありませんが、私は12才の時、15才離れた一番上の兄を重症の結核で亡くしました。母は長年、一番できのいい長男の回復のために精一杯尽しましたが、その甲斐なく亡くなりました。私はふすまを隔てた隣の部屋で、息を凝らしてじっと聞き耳を立てていましたが、肺結核の断末魔の苦しみの末の恐ろしい死にざまで、死の恐怖感がトラウマとして中学生の私の脳裏に深く刻まれました。葬儀の後、何日も母は放心状態で、毎日、街をさまよい、日が暮れてから帰ったり、線路沿いを歩いていたとポツンと言うこともありました。力を落とし自殺の誘惑があったかも知れません。

  当時、私は余り気に留めませんでした。それから半世紀以上経ち、その言葉の重さが今、分かります。母の魂の悲しみが、長く分からなかったのです。いや今も本当の所は分かりません。人間は不思議な生き物で、60才、70才になってやっと若い日々の出来事の意味を深く噛みしめることがありますが、それでも十分とは言えません。

  今、申し上げたいのは、私たちは誰か人間の魂のありかを丸ごと知り得るということは不可能だということであり、ただ神のみがその人の魂をご存知であるということです。


      (つづく)

                                            2018年11月11日

                                     


                                            板橋大山教会  上垣勝



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