険しい山坂を登る機関車


                       湖畔の町ボウヌスを歩く(6)。頭部の黒い大カモメ
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                                                死者の復活 (4)
                                                Ⅰコリント15章42‐49節
 


                                     (3)
  最後に触れておきたいのは、「蒔かれる時には、朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの、自然の体、地に属するもの」と書かれていることです。朽ちるもの、卑しいもの、弱いものなどとは、どういうもののことでしょう。

  私たちはキリストに罪贖われて、清いもの、聖なるもの、強いもの、信仰深いものになったと思っていないでしょうか。確かに、キリストに恵によって結び付けられたからには、そういう面がない訳ではありません。いや、そういう面はあります。でなければここに毎週来るはずがありません。

  貨車は力強い機関車に連結されて、険しい山坂も力強く登っていきます。まるで貨車自体が力強い動力を持っているかのように見えます。それと同じように、キリストに結びつけられた私たちも、罪が贖われてすっかり清くすっかり身軽になった……。確かにそういう面があります。

  しかし考えてみると、それは月のように太陽の光を反射しているに過ぎません。太陽が取り去られれば、キリストから離れれば見る見るうちに光を失い、清さを失い、卑しさが現れます。いや今も卑しさがあり、光がしばしば陰っているのが私たちではないでしょうか。今も私たちは朽ちるものであり、弱く、土に属しています。それが私たちの実情であり、実態です。

  貨車だって、機関車との連結が解かれれば、いつまでも草ぼうぼうの駅構内のレールの上に永久に放置されたままです。

  ただこの者が、主の憐れみによって朽ちないものに、輝かしいものに、力強いものに、霊の体に復活するのです。復活させて下さるのは、朽ちるべき私たちです。死すべき、卑しい、弱い私たちであります。この者が天に属するキリストの似姿にされるのが復活であるということです。何と感謝に溢れることでしょう。そんな力は私にないのですが、そうして下さるのです。

  地上で何かと精神的に落ち込んだり、悩んだり、動こうとしても体が動かなくなったりする私たちです。その体が蒔かれる時、キリストの御恵みによって、ただキリストのご恩寵によって、復活の体に変容される。これは本当にありがたいことです。

  この死者の復活があるから、15章の最後58節はこう語るのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

  キリストのご恩寵があるからもう何も努力しないというのではなく、あるから、「主の業に常に励みなさい」と勧められるのです。太陽の光を浴びて反射しないわけはない。反射するのが喜びになるのです。

  復活があるから「動かされない」のです。死において蒔かれ、新しい命に甦るから、人の意見に聞く耳をもって聞きますが、それらの意見に惑わされたり、色々の情報に惑わされないのです。そしてしっかり立って、主の業に励もうとするのです。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っている」からであります。



       (完)


                                     2018年11月4日


                                     板橋大山教会  上垣勝



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