アダムとキリスト


                        湖畔の町ボウヌスを歩く(5)、純白のハト。
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                                                死者の復活 (3)
                                                Ⅰコリント15章42‐49節
 


                                     (2)
  パウロは更に言葉を足して、「『最初の人アダムは命のある生き物となった』書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」と語ります。最後のアダムとはキリストを指します。

  最初のアダム、創世記2章に出てくるアダムは土のチリから造られ、命の息を鼻から吹き入れられました。神の息、神の霊を吹き入れられて生きたものとなったとあります。それに対し、最後のアダム、キリストは人々に新しい命を与える霊となったと語るのです。それが、ご自身が甦って、私たちにお与えになる復活の命です。すなわち、最後のアダムであるキリストは、人々に新しい命を与える霊となったというのです。

  最初は自然の命の体がありましたが、キリストは霊の体をお与えになると語るのです。最初の者は地に属するものであるが、最後の者は天に属する者です。地に属する者は土からできたものであり、素焼きの器のように壊れやすく、傷つきやすく、もろく、心も同様に傷みやすいもので、命に限りがあります。しかし天に属する者は、天に属するキリストに等しく、霊に属するものであり、神の新しい体を授けられたものです。永遠の命とは、その命のことです。

  すべての人間は土のチリで創造され、神の似姿を取っていますが、それは地に属し、肉に属し、滅びゆくものです。しかし第2の人は天に属する者で、朽ちないものとされるのです。

  パウロは今、イエス・キリストを信じるゆえに、目に見えるものだけに頼っていません。死者の復活を信じて、第2の手紙になると、目に見えざるもの、見えざるものの中により真実なもの、確かなものが宿っていることを語るのです。

  これは弱さの中にこそ、神の力が現わされると説かれることと繋(つな)がっています。キリストの恵みは弱さの中でこそ十分に発揮されるのです。それは死者の復活を信じる者たちに授けられる、特別な価値観です。新しい人間理解であり、世界の理解です。


       (つづく)


                                     2018年11月4日


                                     板橋大山教会  上垣勝



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