死は種まきに譬えられます


  湖畔の町ボウヌスを歩く(3)。中国料理店が多かったのには少々意外でした。政府が力を入れている和食店がないんです。
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                                                死者の復活 (1)
                                                Ⅰコリント15章42‐49節
 

                                     (1)
  今日の個所は、35節以下から続く「復活の体」とはどういう体かという、興味をそそられるテーマです。35節以下では、「死者の復活」が麦の種に譬えられて、蒔かれた種は死ななければ新しい命は芽生えないこと、麦は蒔かれて種自体が死んでこそ新しい穀物が生じて来ると語ります。種の生育については、これは疑いのない科学的事実です。それに似て、私たちの地上の体はいわば土に蒔かれる種であり、新しく芽生えた穀物は天上の体、復活の体だと比喩的に説きます。かなり飛躍した論法で、慣れない人にはこ難しく感じますが、興味をそそる面白い考えです。

  そして今日のところに入って、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と述べて行きます。

  「蒔かれ」、「復活し」という言葉が、4回にわたって繰り返され、地上の体と復活の体がコントラストをなして語られている訳ですが、これは素晴らしい洞察だと言っていいでしょう。あまり普通には聞かない、人間存在を一段と深い所から見ています。先週の個所もそうでしたが、今日のところは一層示唆に富んでいます。

  どこが素晴らしい洞察かというと、自然の命の体が「蒔かれ」て、霊の体が新しく復活すると語っているところです。自然の体が「死んで」とか「葬られて」というのではないのです。蒔かれるというのです。死が種まきに譬えられます。死ぬとは、蒔かれることだと語るのです。ここが非常に新鮮な新しい見方です。むろんこれは死の通常の理解とは大きく異なりますが、多くの示唆を含み、人生の真実を射抜いている見方だと思います。

  私たちが蒔かれて復活するということは、死の手前も向こう側も、復活において人格は続いているということでしょう。死を挟んで人格は変わりません。死は、死んで無に帰すことでなく、死は永遠の世界に向かって蒔かれる時です。蒔かれて元の種は朽ち果てますが、朽ちた瞬間に新しい芽が力強く生まれるのであり、死の瞬間は未来へと進み行く時であると見ているのです。

  ルターは、「死は完成だ」と言っていますが、彼の言葉も死の解明に示唆を与えます。死は、死を通って新しい命が芽生える完成の時と見るのです。元の種から見れば、まさか自分が死んだ時に、新しい芽を出して麦に成長するとはよもや思わないでしょう。元の種は死にますから、もはや新しい芽や新しく育ちゆく麦を見ることはできないからで、それを信じることはできないでしょう。

  私たち人間もそうです。死んで行く私は、自分の後から、神の国において今は目に見えぬ復活の体が、新しく、力強く生まれるとは到底信じられません。しかし、死を通って新しい復活の体が神の国に現れるのです。それが甦りだというのです。

  話をもう少し具体的にしましょう。障害をもって生まれる方々があります。あるいは老人になって手足が自由に動かないし、手助けなしには動けない人もあります。私などは少々認知症気味です。老いて始まったのでなく、18、9才のころから既に認知症気味でしたね。また生まれつき知能に大きなハンデを持つ人たちもいます。

       (つづく)


                                     2018年11月4日


                                     板橋大山教会  上垣勝



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