人が怖くて外出できない


  ウインダミア湖畔の町ボウヌスを歩く(2)。なかなか悪評高いレストランのようです。でも一部には好評とか。
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                                         人類の初穂とは (下)
                                         Ⅰコリント15章12-20節



                               (2)
  復活を否定する人たちのことをこう述べて来たパウロは、話を先に進めて、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と語りました。「初穂」とは最初の収穫物です。教会の巨峰なら、それは味がよく大粒です。末成(うらな)りと違って、初穂や本生(もとな)りは、ツルの元の方になった実ですから、恵みが充実して味がいいのです。

  キリストの復活は、キリストにあるすべての人の復活の起源であり、希望の根拠であり、保証でありますから、初穂は私たち信仰者の救いの初穂であり、復活の初穂であり、喜びの初穂を意味します。

  復活があるから希望が続くのです。死を超えてその向こうまで、希望が続いて行きます。今の苦労、辛さ、誤解を受けても、一人になっても、復活こそ私たちを支え、励ます拠り所になります。

  人は独りです。神の前に一人一人は別人格です。夫婦、親子といえども、別人格です。しかしながら復活があるからいかなる苦境の中にも愛の意味を見出して連帯できるのです。

  パウロは、復活を否定する人たちは自分の根拠を否定している。自分自身を足払いするみたいで、足元を取り払って生きようとしている。それでは絶対立つことができない。それはダメだと彼は説きます。

  彼は12章で、信仰者の多様性と一致を体の譬えによって説きました。しかし、自分の首を絞め、自滅することを唱える人に対しては、否を語ります。それは多様性と一致の基盤をダメにし、自らの存在基盤を危うくするからです。何のための信仰かが分からなくなるからです。

  もし復活がなく、仮初めのこの世だけなら、愛の忍耐は何のためでしょう。何のための忍耐でしょう。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えるなどという愛の生き方も、何の意味があるでしょう。空疎ではないでしょうか。むしろ勝手放題に生き、自己中心的に、わがまま放題に生きた方が、余ほど気が晴れるのではないでしょうか。人のために苦労するなんておそらく意味がなくなります。

  自分だけがよければ、自分と仲のいい仲間だけがよければ、自分の家族だけがよければという人たちが社会に増えて来た気がします。人生はこの世だけだというこの世主義が浸透しています。日本の若者たちが世代の垣根を超えて自由に交われないのは、この自己中が進んでしまったせいではないでしょうか。

  復活がなく神がおられないなら、愛は自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、恨みを抱かないなどといった、相手を尊重する生き方も単なる処世訓に留まり、処世以上に深い所からそれを行う根拠がなくなります。商売で益があるときだけ相手を尊重するといった処世術では、この生き方は生まれません。復活の希望ゆえに、「愛は決して滅びにない」と断言できるのです。

  パウロは今日の個所で、2度までも同じことを色んな方面から語ります。それほど復活はキリスト教信仰の根本であるからです。復活信仰があるから、右手のする善を左手に知らせず、無償で与えることに意味が生まれます。隠れたことを見ておられる方がおられるから、目に見えた報だけを望まないのです。採算なきところも採算が取れると信じるのです。

  彼は、少し先の30節で、「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」と問いますが、愛のために危険を冒すことも、信仰のために冒険することも、キリストの復活なしには意味がなくなると考えるからです。

  31節では、「わたしは日々死んでいます」と語り、「単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」と語って、復活がなければこの世を享楽的に、刹那的に、自己中心的に生きて、何の悪いこともなくなると語るのです。

  だが、キリストは実際に「死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」のです。もしそうなら、もしそれが本当でその上に立って人生を生きようとするのなら、話は違います。

  気前よく無償で与えることにも価値が出てきます。率先して皆のために尽くすことにも意味が生まれ、喜びになるでしょう。犠牲を払うことも、自分のためにそれをするのではありません。もっと尊いお方を知るゆえに犠牲を払うのです。伝道の徒労を多くの伝道者が知っています。あれだけ時間を使い、やがて育ってくれると愛のエネルギーを尽くしたのに、何の甲斐なく空しい結果を生むことさえありますが、その虚しささえ神のみ手の中で宝石に変えられると信じるのです。

  キリストは人類の初穂となられました。彼はトンネルを掘って命を隔てる向こうへとブレーク・スルーし、死の向こうへと貫かれたのです。初穂は、彼に従って死のトンネルを通って、私たちも向こうの命へと復活する約束になりました。初穂となって、私たちを、死を越えて、死の向こうへと希望をもって先導をされるのです。

  イエスは、「私は既に世に勝てり」と言われました。イエスにおいて既に勝利が確約されています。だから彼は、「あなた方はこの世で悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」恐れるな、と語って、私たちを励まされたのです。

  復活信仰は恐れを取り除きます。貧困の恐怖、病魔の恐怖、人への恐怖で外出できない人たち。世への恐怖、将来への恐怖、地震や自然災害の恐怖。生きている限り色々な苦難や恐怖が付きまとうことをイエスはご存知です。だから、イエスは私たちのために既に勝って下さったのです。それらの力に負けてはなりません。

  パウロは、復活信仰によって苦難や恐怖を越えていったのです。私たちも復活信仰の意味をしっかりと考え、恐怖を乗り越えて行けるのです。それだけでなく、人々に希望を与える生き方にまで導いて下さるのです。イエスの復活はそのような力を、苦労し、重荷を負ったすべての人に与えるからです。

  パウロがコリントの人たちに宛てたこの手紙でしていることは、そういうことであります。


  (完)


                                     2018年10月28日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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