骨抜きになった信仰


                   ウインダミア湖畔の町ボウヌスを歩く(1)      右端クリックで拡大
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                                         人類の初穂とは (中)
                                         Ⅰコリント15章12-20節



                               (1)
  さて、イエスの復活後、復活の主に出会った人たちは、「主の復活の証人」と呼ばれて活動しました。彼らは、復活の主が今も活きて自分ちと出会い、語りかけておられると語り始めました。

  そんな事っておかしな考えだと思うかもしれませんが、これは日本人に馴染みのない事ではありません。仏壇のあるお家では、仏壇に花を手向けるお家もありますが、ご飯をお供えする家もあると思います。それはまるで今もその人たちが生きているかのようにお捧げすることです。これは実は、高野山を開いた空海が入滅した後、彼は現在も活きているとして、以来毎日2度、ですから今も空海に仕える僧が2食の食事を運ぶようになったことと関係しています。「かのように」でなく、実際に生きていると彼らは考えるのです。

  ただキリスト教では、復活のイエスに食事を運ぶなどというバカげたことは致しませんが、彼らは、「ガリラヤで再びお会いできる」と約束され、キリストは今も活きて日常的に自分たちに出会って下さることを経験し、復活の証人になったのです。

  彼らは神に「ついて」とか、イエスに「ついて」、復活に「ついて」思想を語るのでなく、イエスの復活を今の事実として、殉教をも恐れず生きました。かつて生きていたが、今は死んだ方として語るのでなく、今、生きている方として、復活して働いておられる方として語ったのです。

  初代教会はそういう教会でしたが、ギリシャ世界に生まれたコリント教会では、パウロが去った後、復活を否定する人らが現れ、12節のように、「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと言っている」ということになってしまったのです。全員ではなかったようですが、一部の雄弁な者らがそういう考えを主張したのでしょう。

  彼らはキリスト教徒になってもギリシャ思想の影響下にありましたから、ギリシャ的な霊魂不滅を信じて、体の復活を否定した人たちかも知れません。あるいは、信仰を持ちながら、死後の命など信じない唯物主義者であった可能性もあります。あるいはまた、洗礼を受けて私たちは復活し再起したと、キリストと共に死にキリストと共に復活したと、精神的な意味での復活や再起にだけ限定して復活を考える人々だったかもしれません。

  しかしパウロは、教会が、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えている」ことを重視して、今日の個所を書いて行きます。

  彼は13節と16節で、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と2度にわたって強調しました。これは、キリストの復活が人々の復活を必ず引き起こすものであり、キリストの復活と信仰者の復活はコインの裏表のように分かち難く結びついているということです。死者の復活があるから、キリストは復活したと言っているのでなく、キリストの復活はいわば初穂であり、必ず死者の復活に至らせるものであるから、信じる者たちの復活が結果的に起こらないならキリストも復活されなかったことになると言いたいのです。かなり突っ込んだことを述べています。

  そしてキリストが復活されなかったというなら、①私たちの宣教は無駄であり、②信仰も無駄であること。「無駄」とある言葉は、ギリシャ語で、空っぽ、偽り、見せかけ、実体がないことを指します。

  その結果、③「わたしたちは神の偽証人だ」、嘘つきだ、人々をたぶらかす詐欺師だと告発します。

  そして更に、④「神に反して証をしたことになる」と語って、人を騙(だま)しているだけでなく、神をも騙している。そういう所では、真理もヘッタクレもなく、神が行われなかったことを、行われたと嘘をつくわけですから、もはやどうしようもない信仰になるということです。

  もしそうなら、⑤「あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」と追及していきます。「むなしく」とは、妄想、錯覚という意味です。それは空しい偶像礼拝だと言っているのです。現代的に言えば、それは洗脳に過ぎず、根拠のない妄想になってしまうと言いたいのです。

  そして、「あなたがたは今もなお罪の中にある」ということになり、⑥「キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまった」ことになると語ります。「滅んでしまった」とは、単に死んだのでなく、永遠に破滅したことになるとの意味です。彼らは罪の問題を解決できなかっただけでなく、その魂は永遠に滅びてしまったことになるというのです。

  そして彼はさらに徹底して、⑦「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」この世の生活にしか望みがないなら、キリスト教徒は結局はすべての人の中で、最も惨めな、嘆かわしい者である。人類の中で一番憐れな存在になると語るのです。

  復活を否定する人たちは、宣教も伝道も信仰も神の力も否定し、復活による命も否定して、彼らの前には夢も希望も何もなくなる。その信仰はすっかり骨抜きになると警告するのです。


  (つづく)


                                     2018年10月28日



                                     板橋大山教会  上垣勝



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