安らぎと喜び


        板橋区民祭の神輿。幾つかの神輿の担ぎ手は女性が半分。
           外国人も担いでいて、背が20cmほど高いので彼らの苦労は見ちゃあおれません
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                                         あなたの魂が休まる (下)
                                         マタイ11章28‐29節



                               (1)
  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」先程はこの部分を子ども達にお話しました。ちょっと難しかったかも知れませんが……、いや、そうでなかったようですね。直観で受け取った子どももあったと思いますが、お母さんたちに聴いて頂きたい思いもありました。

  さて今度は、イエスが、「休ませてあげよう」と言われたこと、「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。…安らぎを得られる」と言われたことからご一緒に聞きたいと思います。

  暫らく前に用事があって、幾つかの大きな総合病院に行きました。驚いたのは事務の方、内科とか外科とか色々な科がありますが、その窓口の事務の方々が非常に忙しくしていました。ケンケンしているのではありませんが、笑顔がない。ゆっくり応対する所がないのです。幾つかの部署に行っても似たり寄ったりで、温かみのある雰囲気が少なくて、これではこの方々は相当疲れるだろうと思いました。

  一部から全体を推し量れませんが、他の病院でも似た経験をしたことがあります。以前はもう少し余裕があったと思います。大総合病院だけでなく、一般の職場もどんどん忙しさへと変化しているのでしょうか。

  暫らく前は管理社会が進んでいると言われましたが、今は社会に緊張が広がり緊張社会になっている気がします。職場によって度合いや濃淡はありますが、日本人は相当疲れているのでないか、疲労がたまっているのでないか。もしそうなら決してよい傾向ではないと思います。

  イエス様は、そういう職場の疲れた人にだけ言っているのではありませんが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃったのです。

  重荷や疲れの種類を問われません。「疲れた者、重荷を負う者。」人間関係の気苦労で疲れたり、生活苦で疲れたり、看病で疲れたり、人生そのものに疲れたり、もの凄く忙しくて疲れたり、負い切れない重荷を負って悩んでいる者など、種類を問わず、どんな人でも重荷を負い、疲れている人は皆、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われたのです。

  「休ませる」とは、元は竪琴の弦(つる)をゆるめて休ませることを指します。竪琴の弦のように緊張して神経をピンと張り続けていては、身が持ちません。しかし、「私のもとに来れば」、緊張が解かれてゆったり休むことができる。平和な休みが与えられるとおっしゃったのです。

  イエスが与える休みは、人生をデレ、デレ怠惰に過すためでなく、休んだ後、次の働きを担うためです。意欲と喜びを得て、活気を持って人生を生きるためです。先ほどの8か月の赤ちゃんを亡くしたご両親が求めたように、富弘さんが病床で切に求めたように、人生の意味を知って精一杯生きるためです。

                               (2)
  ハレスビーの信仰書に、「休ませてあげよう」とイエスが言われるのに、私たちクリスチャンは一度も本当の休みを得たことがないのでないかとありました。

  どうしてか。それは、心からキリストを迎えた真面目なクリスチャンに限って、真面目さゆえに、自分の罪のことを意識的無意識的に問題にしながら生きているので、心が休まらないと言うのです。大らかに、のんびりイエスに委ねたらよいのに、誠実ゆえにのんびりできないのです。

  また、100%キリストを信じ切っていない自分を知っているので、こんな不信仰を赦して下さるという事が信じられないのです。神との正しい関係を結んでいない後ろめたさが、どこかしらあり自分を無意識的に責めるからです。

  それで更に反省すると、自分は本当に心の底から神を愛しているのでも、自分の罪を本当に憎んでいるのでもないという事。いつの間にか、自分が犯す罪を嘆きもしなくなっているし、正直、信仰者らしい罪との戦いもしていないという思いが胸の底に燻(くすぶ)っていて、そのためクリスチャンだが魂に真の休みがない。

  ところが、「誰でも」と言われるのです。「誰でも」には無論クリスチャンも当然含みます。すると他でもない、安息のないクリスチャンにも、耳を澄ませば、イエスは、「私のもとに来なさい」と語られているのです。

  ですから、来るだけでいいのです。行きさえすればいいのです。病人は手遅れになる前に医者のもとに行けばいいのです。病人は自分では何もできません。何もする必要はありません。医者がしてくれるのです。

  イエスが助けて下さるから、あなたはイエスの所に行って、自分の悪い所をすべて話せばいいのです。苦しんでいることを打ち明ければいい。そうすると休みが与えられるのです。重荷を下ろして、休みが与えられるに決まっているのです

  「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。安らぎを得られるとは、魂に安らぎが得られるという意味です。存在の最深部からの安らぎです。

  魂の安らぎ以上に大切なものはありません。魂の安らぎと喜び。これはキリストの福音が与えて下さる高価な真珠です。永遠性を帯びた価値を持つ宝です。そのような大切なものを、誰でも私のもとに来るなら与えられる。さあ、いらっしゃいと招いておられるのです。

  イエスは別のところで、「健康な人には医者は要らない。要るのは病人である」と言われました。私たちは苦しみ、休みがなく、疲れ、苦労していることを、自分の悪い所を、イエスに打ち明ければいいのです。苦しんでいる事を打ち明ければよい。自分が気になる罪の告白です。その時、そこに休みが待っているのです。

  自分はこれまで本当に心から罪を告白しているだろうかと、気に病むかも知れません。しかし、心の内で神に告白するのを拒まなかったのなら、それでいいのです。私たちに必要なことは、神が与える休みを受け取り、その休みに入る事だけです。

  そして、あなたの身代わりになって十字架について下さったイエスを見上げればいいのです。そして感謝すればいいのです。

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  「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語られています。

  重い荷物はギックリ腰にならないために、腰を入れて持ち上げなければなりません。重荷を負うには負い方があります。また非常に重い荷物を負う場合には、背負子(しょいこ)が要ります。軛は農具です。2頭の牛が畑を耕す犂(すき)を引く時に、牛の肩に渡した太い棒のことです。畑を耕すのは農作業の中でも過酷な重労働ですが、牛がそれを助けてくれます。

  イエス様は、私と一緒に重いあなたの重荷を負いなさい。私から負い方を学びなさいと言われたのです。イエスが負っておられる軛を一緒に負うと、私たち自身の重荷の負い方が分かるからです。

  そしてもし負い方が分かれば、どんなに重い重荷でも、それを負うのが楽になり、楽しみになるかも知れません。少なくとも心を安んじて負うことができるでしょう。すると富弘さんのように、重荷を負った自分がいる所にも確かな人生があること、本当の人生がそこにもあったことを発見できるのです。

      (完)

                                     10月21日


                                     板橋大山教会  上垣勝



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