隠された意味がある


                      ボウヌスの町を歩きました       右端クリックで拡大
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                                         あなたの魂が休まる (上)
                                         マタイ11章28‐29節



  皆さんの中に犬を飼っている人、猫ちゃんを飼っている人はいますか?今日はお休みの人たちがあって、誰も犬猫を飼っている人はいないんだ。じゃあ、大人の方々はどうですか?犬ですか。猫も。何人かおられますね。

  じゃあ、ブタを飼っている人は?いないよね。ニワトリは?これもいないね。でも、田舎の農家に行くと、ニワトリを放し飼いで飼っていたりして楽しいんだよ。朝ね、雄鶏(おんどり)は高い木に止まったり、小屋のてっぺんに上ったりして、「コケコッコー」、「コケコッコー、夜が明けた!」なんて、まだ暗いけど、朝を告げるんです。犬だって、狭い家の中で飼っちゃあいないよ。広い農家のお庭で自由に遊びまわっているよ。学校から帰ってくると、犬がしっぽ振って坂道を降りて迎えに来てくれたりね。楽しいよ。

  さて今日は前に絵をお見せした星野富弘さんのお話をします。

  高校生だった頃、富弘さんの家は、すぐ前を広い渡良瀬川が流れていて、家のすぐ裏手は森があって山に続いているんだ。富弘さんの家は東村(あずまむら)の農家で、田んぼでお米を作ったり、山をずっと上った畑で野菜を作ったりしていました。豚も飼っていたんだ。

  豚って何のために買うの?分かんない?肉。そう、肉を食べるためだよね。トンカツとかね。他にも役に立つことがあるんだけど、分かる?実は、ブタのウンコ、フンだよね、ウンコが役に立つんだよ。ヘエッて。野菜の肥料、堆肥になるんだ。実をいうとね、ブタのウンコよりもっと良い肥料があるんだよ。人間のウンコ。これは最高なんだ。いいもの食べてるから。ただ今は使わないけどね。

  高校生だった富弘君はある日曜に、お父さんのお手伝いをして、ブタのウンコを袋に詰めて、背負い籠に入れて背負って、山の坂道をウントコショ、ドッコイショって、野菜畑まで運んでいたんだ。ウンコは湿っていて重いんだ。それにクッサイよ。それからウンコは熱をもって温かくなるんだ。背中に背負っているだろ。背中が熱くって汗びっしょり。それを担いで登っていくんだけど、非常に重くて一気に畑まで行けない。途中で、ウンコをウントコしょって下ろして、一休みしたんだ。

  目の前を見ると、いつの間に建てられたか、真っ白に塗られた十字架のお墓が出来ていたんだよ。見ると字が書いてあって、「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」って書いてあったんだ。それを見た富弘君は、「労する者」というのは、苦労する者っていう意味だから、自分は今苦労して山道を登って来たので、自分のことを言っているのかなって思ったんだ。それに、「重荷を負う者」って言うんだ。自分は重い荷物を背負って上がって来たんだよね。やっぱり自分のことを言っているんだろうかと思ったんだ。でも、次の、「我に来たれ」ってどういう意味だろう。「我」って誰のこと?考えても分からなかったんだよ。

  それから約7年たって、星野富弘君は大学を卒業して学校の先生になりました。色々教えることができるが、特に体操の先生になったんだ。それで生徒の前で模範演技をすることになった。こういう風に、バック転とか、こんな風に、前転とか。そして前方宙返りをしたんだ。もちろんこれまで失敗したことがないよ。それでこうして、飛び上がって、空中でクルッと一回宙返りして、足から着地するつもりだった。ところが頭から落ちたんだ。首の骨を折ってしまい、肩から下が、手も足も胴体も全く動かない。大急ぎで大学病院に担ぎ込まれた。そして何と9年間も入院したんだ。

  でも治らない。お母さんが熱心に看病してくれました。でも富弘君はもう学校の先生に戻れない。だって立つことも座ることも動くこともできないんだ。絶望的になって、やけくそに泣き叫んだり、お母さんにボロクソに当たったり、もう死んでしまおうと思ったくらいだったんだ。

  時々、大学時代の友達が見舞ってくれました。その中に、教会に行っている友達がいて聖書をくれたんだ。それでお母さんにパラパラっとめくってもらったり、読んでもらったりしたんだ。その時に、目に飛び込んで来た言葉があった。「すべて労する者、重荷を負う者は、我に来たれ。」エッ、あの十字架に書かれていたのは聖書の言葉だったのか。イエスという人の言葉だったのか。それを知るとなぜか胸が熱くなった。それからも色々なことがあり、やがてイエス様を信じて洗礼を受け、クリスチャンになった。その間に、前にもお話したような、こんな素敵な絵を描いて、素晴らしい言葉を添えるようになっていたんだよ。

  9年して、もう病院にいても良くならないので退院して家に帰った。ある時、あの十字架のお墓のことを聞いたんだ。それは……

  結婚をして間もない、ある若い人たちに、赤ちゃんが生まれた。元気そうで、キャッキャ笑って、目が輝いて、かわいい赤ちゃんでした。ところが病気になってしまった。「イエス様、この子の病気を治してやってください。」若いお父さんとお母さんは熱心にお祈りしたそうです。お医者さんも一生懸命に治療してくれました。ところが8か月で亡くなったんだ。若いお父さんとお母さんは、泣いて泣いて泣きやまなかった。「どうして、イエス様、赤ちゃんが死んだんですか。治して下さらなかったんですか。8か月の短い一生、そこにどんな意味があったのですか。」泣き崩れました。そしてこの白い十字架を建てたのです。「疲れた者。重荷を負う者、我に来たれ。」

  病気の重荷を負って生まれた赤ちゃんのためと、苦労した自分たちのためにこの言葉を書いたんだ。

  ところがそれから約10年。人々は赤ちゃんと十字架のことなどすっかり忘れてしまっていた。ところが富弘君は、病院で聖書を見て、「ああ、あの言葉だ」と思い出したんだ。すると、体が少しも動かない自分に、イエス様が「我に来たれ」って言っておられるように思えたんだ。

  赤ちゃんが8か月で死んだ時、赤ちゃんは何の意味もなく死んだと両親は思いました。だが死んでから約10年して、この同じ東村の中から富弘青年がイエス様に救われるために、この赤ちゃんは用いられたんだ。もちろん8か月で死ぬなんてかわいそうです。でも、もしかしたら、赤ちゃんはやがて星野富弘さんが救われるために、一足先に死んで、十字架が作られたのかもしれません。

  星野富弘さんはこんな本を何冊も書いています。今では英語になったり、ポーランド語になったり、いろいろの言葉に訳されています。東村にある星野富弘美術館には5年間で600万人が来ました。13年たった今では1千万人ほどが来館しているでしょうか。遠く熊本にも富弘美術館が生まれました。そして外国でもあちこちで展覧会をして多くの人を励ましています。

  どんな小さい子どもの死にも、隠された意味があるのです。それだけでなく、こんなこと何の意味があるのって思うことにも、隠された意味があるのです。神様はそんな隠された素晴らしい意味を作ってくださっているのです。

  子どもたちへのお話はここまでです。お祈りしましょう。

      (つづく)

                                     10月21日


                                     板橋大山教会  上垣勝



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