パウロの独創性


    ウインダーメアから、湖畔の町ボウヌスは近くでした。時間があれば軽いウオーキングの距離です。
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                                       何を受け継ぎますか (2)
                                       Ⅰコリント15章1-11節



                               (2)
  さて、彼が語る「最も大切なこと」とは、あなた方に語っただけでなく、実は「わたしも受けたものです」と語って、3節以下で、「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり3日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後12人に現れたことです……」と書きます。

  イエスの死、葬り、復活、顕現。これはイエスはどういう方か、新約聖書の基本的なメッセージです。これはイエスに起った客観的な出来事であり、福音の中心、信仰の骨子であるとメモ風に語るのです。

  まず彼は、「わたしも受けたものです」と語っています。パウロが説いた十字架中心主義とも言える福音の教えは、独創的とさえ言えるものです。そして実際彼は思想的に独創的な人物でした。しかし彼自身はそういう事を少しも重視しないのです。それよりもっと重要なことは、自分があなた方に説いた福音は、自分自身も「受けた」のであり、頂いたのであり、私は福音を受け継いだ受容者、継承者に過ぎませんと、徹底的に自分の立場を福音の下に置いたのです。

  徹底して福音の下に自分を置く、初代キリスト教の彼のこの態度がなければ、キリスト教は別の道を進むことになったでしょう。即ち、自分こそキリストの福音の新しい発見者だ、その悟りを拓いた者だなどと主張して、絶えず新しい新宗派を作って、その教祖や開祖が現われて来る普通の宗教になったでしょう。教派ではなく宗派を作って、自分がその開祖やトップに立つというキリスト教になったでしょう。

  また、もしキリスト教信仰が客観性の上に立つのでなく、キリストへの敬虔な心や感情といった、人間の側の受け止め方にあるとすれば、心は絶えずコロコロ変わりますし、感情も秋空のように曇ったり晴れたり実によく変わる不確かなものですから、キリスト教信仰はコロコロ変わる、不確実なものになったでしょう。

  しかしパウロは、私があなた方に伝え、私も受けたものは、ここに述べる客観的な確かさのあるものだと語るのです。客観的なことだから安心できるのであり、悩むことなく頼れるのです。パウロはこのお方に信仰の礎を置くのです。

  ただ彼は「最も大事なこと」に、イエスの誕生と生涯を含めていないのはどうしてかという疑問が残ります。どうしてなのでしょう。それは、イエスの十字架と死、復活を際立たせるパウロの独特な考えが働いていると思います。なぜならイエスの生前の生涯だけに集中すると、イエスを回顧することや記念することが強くなり、イエスの事績を回想するという傾向になり勝ちです。だが死と復活と顕現に重点を移すと、現在の自分との関係が強く出るからです。自分とキリストの実存的関係が必然的に生まれ、そこに信仰の深化が生まれる。こうした彼の独創的なものがあります。むろん彼はイエスの生前の生きざま、その史実を当然のこととして前提しているのです。

     (つづく)


                                          2018年10月14日



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