未熟さに失望するな


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                                         最高のもの  (下)
                                         Ⅰコリント13章8-13節



                                (3)
  「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

  「それゆえ」とあります。まことの愛、アガペーは神の愛であり、キリストから来ます。神が下さる最も大いなる賜物。それが愛です。そして、この神への、キリストへの信頼が信仰です。そして神への信頼の中で愛の賜物が授けられるのです。人への愛とは、その人に神はまだ絶望したり諦めておられないことを証しして行くことです。それを希望して行く事です。ですからこの3つは互いに関係し合い、支え合っていて、私たちを神へと結びつけて行きます。

  「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神が私たちを愛してキリストを下さった。ここに愛があります。

  神が愛であるから愛はいつまでも消えることはないのです。たとえ私たちが愛を忘れ、怒りに燃えることがあり、そんな自分に愛想が尽きても、神から離れてはなりません。戻って行くのを許してくださる。「帰れや、わが家に」と讃美歌にもあります。愛はいつまでも絶えることがなく、消えることはないのです。たとえ預言はすたれ、異言はやみ、万物が移ろい行っても、愛はいつまでも変わることはありません。神の愛の手は今も私たちに伸ばされています。ユダに対しても…。

  先週読み変えたように、キリストは忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、高ぶりません。キリストはいらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真実を喜びます。そして、全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐え、キリストの愛は決して滅ばないからです。

  愛は与えてもなくなりません。物はなくなりますが、愛は泉のように尽きてもまた湧いてきます。キリストの命につながっている限り湧いてきます。愛は与えれば与えるほど増えるのです。

  ハレスビーという人が、「キリスト者であるとは、神の愛に自己を任せることだ」と書いています。子どもは取り立てて言うほどの素晴らしいことをする訳ではないのに、両親の愛にすっかり任せています。値打ちがないのにまるでそうする値打ちがあるかのようです。

  私たちはこうした子どもから信仰者の姿を学ぶのです。私たちは、どんな状態にあっても、「神の子どもであるという事を忘れてはならないのです。」神に一切を任せ、愛されるようになればいいのです。両親は子どもに愛情を注ぐ事を喜びます。それと同じように、私たちを愛することに、「神は深い喜びを見いだしておられるのです。」ここに最高のもの、最大のもの、私たちに対する不滅のものがあります。

  しかも、むろん神に造られ、神に愛されていますが、まだ「私たちは完成された者ではありません。」信仰的にまだ子どもであって大人ではありません。ですから、自分の未熟さを痛感させられることがしばしばなのですが、自分に失望してそこで居座ってしまってはいけないのです。諦めてはならないのです。勇気を失ってはならないのです。諦めない事への勇気です。「最も大いなる神の愛」が、愛においても完成へと導いて下さることを信じ、希望し、終わりの日を目指して進みたいと思います。


        (完)

                                       2018年9月30日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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