奥ゆかしさ


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                                           Aさんを偲ぶ会
                                           マタイ6章1-4節



                              (1)
  「見てもらおうとして、人の前で何かをする…」とありました。

  「見てもらおうとして」という事まで行かないが、自分がすることが少しは分かってもらえているという願いは誰でもあるのではないでしょうか。よくやっているな、真面目にしている、彼(女)もいいところがある。そういう事が全然知られず、少しも評価されないと詰まらない気持ちが残りますね。だから、他の人がそんなことをしている場合は察してあげたり、声を掛けてあげたりすることは大事になるでしょう。

  しかし中には、ファリサイ人や律法学者のように、人前で祈るとか施しや善行をするのを好むとか、人に認められ、誉められるために正しい事を行なうという場合も無きにしもあらずです。ただ、そのような行ないは、すべてを正しく評価される神の前での正しさとは少しも関係がないというのです。またそういうものは神から何の報いも頂けないとも言われてるのです。

  私たちの一番忘れてならない事は、天の父が知っておられるという事。天の父に喜んでいただけ、神から報いを頂くこと、神によってヨシとされ、義とされる事です。

  優れたプロ野球選手やスポーツ選手は、人々からの誉れで満足していません。そういうレベルで生きるのでなく、自分自身と戦ってもっと上のレベルを求めています。私たちはプロの選手ではありませんが、人からの誉れを得たいとかいう人間のレベルで生きるのでなく、神との交わりや神との関係のレベルで生きなければならないという事です。そうでないと、せっかくキリストの恵みに与った存在という所からずり落ちて行きます。

  「だから施しをする時には」、人々から褒められようと、自分の前でラッパを吹きならして人々を集めて、自分の善行を見てもらおうとかそれを吹聴するとかをするな。言い広めるな。それは偽善である。既に人からの報いを受け取っていることになると言われたのです。

  本来の施しは、何の報いも期待せず、他人に気づかれないように貧しい人に与えるものだとおっしゃったのです。あなた方は神からの報いだけを目指しなさい。そのような施しをする人にこそ、神は報いをお与えになるという事です。これは、「天に宝を積みなさい」ということに通じる言葉です。

  更に、施しをする時には、「右手のすることを、左手に知らせるな。」施しを人目につかせないためであるというのです。これは比喩ですが、人の心には誇りたいものがありますね。ただそれがあると、右手のしたこと以上のことを、左手が宣伝しがちになります。そして反対に、左手がした悪いことを、右手に知らせまいと必死になります。人間というのは多かれ少なかれ、右手でよい事をし左手で罪を犯しているんだそうです。本当にそれが人間だと思います。自慢になるものは多くの人に知らせ、自慢できないものは知らせない。政治家だけではありません。

  しかし私たちは、しかり、しかり、否、否であること。事実を事実とし、虚偽を虚偽とする公正さが大事です。事実を膨らませたり、曲げてはならないのです。

  イエスが言われるのは、善行の自慢をしないだけでなく、自分の心の中であっても、右手がした善い事を、繰り返して心の中でいい気分になって味わうな。自画自賛して自分に浸るなということでしょう。

  そして、「隠れた事を見ておられる神との関係で生きなさい」というのです。

  これは爽やかな生き方です。日本でも今は忘れられつつある「奥ゆかしい」生き方だと言っていいでしょう。奥ゆかしさとは、深い心遣いがあること、奥深くて慕わしい在り方を指しますが、本当の奥ゆかしさは、奥深く隠れた所で見ておられる神の前で生きる所から生まれるのです。

  美しい日本とか、日本賛美を繰り返している人たちこそ、こういう奥ゆかしさを持ってもらいたいと思います。

  ところで今日はAさんを偲ぶ会ですが、京子さんには、「右手のすることを、左手に知らせるな」という生き方がありました。この1、2年は、寝込む程ではありませんがお元気な数年前までと比較するとお身体の調子を崩されましたが、お元気な頃は率先して色々な事をなさいました。しかもそれをソッとされました。1つだけ申しますと、数回ありましたが、ある日曜日の朝、玄関を開けると、京子さんが教会玄関とか、牧師館の前、また坂の下まで掃いておられるのです。トイレを掃除しておられる事もありました。見つけて感謝すると、「今朝は早く着き過ぎたものですから」などとおっしゃるのです。

  色々と人間関係で沢山もまれて、神のみを見上げて生きるようになっておられたと思います。それがこういう京子さんを作ったのでしょう。

  この聖書の個所ではよく申しますが、神は少しも自慢なさいません。素晴らしい日没と夕焼け、空にかかる虹、霧や霞がたゆたいサッと晴れたりする野山。青い大空も海も山も造り、美しい声でさえずる小鳥たち、海の魚、獣たちを造られ、人をご自分に似せて造られたが、どこにもご自分の所有権を示すものを刻みつけておられません。ただご自分の恵みに与らせようとしておられるだけです。大らかでなんと広々した心でしょう。

  神こそ右手の業を左手に知らせられないのです。神は与えるのみ、愛のみであられます。

  今の社会は目に見える報いや効果、即効的な効き目を求めています。しかしもっと悠久の時の流れの中に身を置いて生きるべきではないでしょうか。その大切なことを忘れていないでしょうか。見てもらおうとして人の前で何かをするのでなく、永遠におられる父なる神との関係の中で、本質的な在り方を求めて生きて行きたいと思います。

       (完)

                                       2018年9月21日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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