愛を私に置き換えて読みましょう


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                                      愛がなければ (下)
                                      Ⅰコリント12章31節b-13章8節a



                               (2)
  4節以下に入ります。先ず、ここに出ている「愛」を「イエス」に置き換えて読んでみましょう。「イエスは忍耐強い。イエスは情け深い。ねたまない。イエスは自慢せず、高ぶらない。イエスは 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。イエスは不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 イエスはすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 イエスは決して滅びない。」実にぴったりはまります。文章が元よりも生き生きして、趣旨も明瞭になりました。

  第1ヨハネに、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」とあります。私たちの愛でなく、神がキリストを通して私たちを愛された。ここにアガペー、まことの愛がある。だから、愛をイエスに置き換えると意味が一段と明瞭になったのです。

  次に、ここを「私」に置き換えて読んでみます。すみませんAさん、読んで頂けますか。「私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。 私は礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 私は不義を喜ばず、真実を喜ぶ。私は すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 私は決して滅びない。」有り難うございました。どうですか。どう思われましたか。……。すみません。Bさんもお読みくださいますか。「愛は忍耐強い……。」有り難うございました。Bさんはどうお感じになられましたか。……。

  私自身は、「私」に入れ替えて読んで、恥ずかしくなります。途中で、穴があれば入りたくなりました。一区切り進む毎に、自分のこれまでの色んな場面が思い出されて、自分はあの時こうでなかった、この時もこうでなかった。この時は言われている通りであったなどと、悔いや恥ずかしさを思い出しました。

  それは、愛を自分の資質や性質として、自分の持ち物として読んだからです。自分は何と情けない人間だろうと思ったのです。しかし先程申しましたように、もし自分が愛に欠けるのなら、愛を神から求めるべきなのです。その道は、キリストによって私たちに開かれているのです。

  そういう事を踏まえながら、4節以下を読みますと、先ず「愛は忍耐強い」とあります。元の言葉は、怒りを遅くするという意味です。激しい感情から自分を遠ざける事を忍耐強いと語っています。「情け深い」は、慈悲深く、思い遣りがある。憐れみ深い事です。「妬まない」は、嫉妬しないことや恨みで燃えない事を指します。

  「愛は自慢せず」とは、自惚(うぬぼ)れず、鼻持ちならない事をしない事です。「高ぶらない」は、特に知的高ぶりです。知的に高くて高慢に、膨れ上がる事です。「 礼を失せず」は、コリント教会で起った礼拝中の不作法、秩序を乱す行為を指すと言われています。ただ具体的に何を指すのかは分かりません。他者の事を考えない、我儘(わがまま)な行為なのでしょう。

  今月初め、アメリカのジョン・マケインという共和党の重鎮の葬儀がありましたが、トランプ大統領は招かれませんでした。トランプでなく、ブッシュ元大統領とオバマ前大統領が招かれ弔辞を述べました。その後娘さんが、「父のアメリカは寛大で、好意的で、恐れを知りません。……強いので静かに語ります。自慢しません」と語りました。「強いので静かに語ります。自慢しません」という言葉は強く心に止まりました。

  「愛には恐れない。完全な愛は恐れを取り除く」とヨハネの手紙にあります。愛は強い。恐れない。だから静かに語り、自慢しないのです。

  パウロがこう語るのは、人間の愛の背後にキリストの愛が働いているのを知っているからです。このバックがあって支えられているので、「愛は忍耐強い。愛は情け深い」、自慢する必要はなく、高ぶる必要もない。 礼を失することも、利益を求める必要もない。いらだつことや恨みを抱くことも不要と語るのです。

  次に、「自分の利益を求めず」とは、利己主義や、自己中心でない事を言います。自己中心は妬みと高ぶりと共に、隣人を失う原因にもなります。「いらだたず」は、言わずもがなです。怒りっぽくない事。更には怒りの挑発に乗らない事も含みます。「恨みを抱かない。」これは、悪をいつまでも記憶し続けない。さっぱりして忘れる事です。ただ現実には心の内では用心が必要な場合もあるでしょう。しかし、いつまでも問題にし続けない事、拘泥しない事です。

  「不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」愛は悪事や不正を喜びません。遠ざけます。 ただ他者の不義だけでなく、自分の不義も喜ばないと言う意味です。そして「真実を喜ぶ。」真実が行なわれる事を喜び、真実が明らかになる事を喜ぶのです。

  そして、愛は「すべてを忍び」、ギブ・アップしない。諦めない。元々は、屋根を葺いて、上から落ちて来るものを自分の体で受け留める事を言います。そういう豪快さです。愛は豪快な面を持ちます。「すべてを信じ」とは、お人よしになることを言いません。人を信じる前に、神が働いて下さることを全て信じることです。「すべてを望み」は、神が働いて下さるから、どんな事があっても望みを捨てない事です。そのように信じる時に、「すべてに耐える。」耐え得るのです。

  ここを読むと、私は自分に愛の少ない事を痛感させられます。しかし、神の御言葉は私の心を見分け、砥石で刃物を研ぐように、私の心を研いでくれるのです。私たちは砕かれる事が必要です。しかし砕かれるだけは不十分で、箴言に「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」とありますが、み言葉によって心を研いで頂くことが大事です。そうしないと、錆ついてしまいます。若い時は無論そうですが、70才や80才になっても、90才になっても神のみ言葉で研いで頂く。そうでなければ、心が鈍り、愛が鈍ります。

  またここを読む度に、自分の心は決して無垢でなく、純粋でない事。汚れている事。しかしピュアな、純粋さが欲しいと思わざるを得ません。パウロが、「愛がなければ、私は一切無益だ」と自分の身に問いかけるのは、そのようなピュアな愛を切に求める心を持っていたからでしょう。

  純粋な愛は理想的すぎる、幻想だと言って退けてしまったら、それでおしまいです。彼がフィリピの手紙で、自分は完全になっているとか、それに達したとか言うのでなく、それを求めて、体を前に伸ばして捕えようと走っていると言うように、私たちもそのような生き方で愛を求めたいと思います。

  自分の中に愛が少ないかも知れません。しかし、愛は神から授けられる最高の賜物なのでした。その愛を授けて頂くよう、切に求めて行きましょう。

       (完)

                                         2018年9月16日




                                       板橋大山教会  上垣勝



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