愛はたまもの


                  豊かな表情を持った、デューラーの「祈りの手」1508年。
                                ・



                                      愛がなければ (上)
                                      Ⅰコリント12章31節b-13章8節a



                               (1)
  「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル…」とありました。

  パウロは、愛の賛歌と呼ばれるこの個所で、私たちが祝福される「最高の道」を語ります。1節以下は愛が不可欠な事。4節以下は、愛とは何であり何でないか、愛の内容を語ります。そして8節以下は、愛の永遠性について展開します。

  パウロは先ず初めの段落で、3つの方面から、愛を欠けば一切の事柄は空しく、空虚で、何の益もないと声を大にして語っています。

  人々の「異言」、天使たちの「異言」とありますが、元は単純に「言葉」という語です。だが、普通の人には解き難い神に根差す霊的な「異言」を指すこともあります。要するに、優れた言葉や、霊的でまるで天使らが話すかのような素晴らしい言葉。格調高く人の肺腑の奥にまで達し、うっとりシビレさせる言葉です。一般化すれば、いかに言葉の才を持ち、雄弁であっても愛がなければ騒音と同じだと言うのです。

  現代では、数万人の若者をライブで熱狂させるアイドル歌手の歌やトーク・ショウが武道館などでありますが、そんなものも含むかも知れません。水をさす訳ではありませんが、彼らがいかに甘い愛、深い愛、悲しい愛、悩みに翻弄されつつ裏切らない愛を歌っても、もし彼の、彼女の心に実際に愛がなければ、「騒がしいドラ、やかましいシンバル」と同じでしょう。

  ドラやシンバルは異教の宗教で使われた道具です。愛を欠くなら、その言葉は騒がしくやかましい道具に過ぎない。皆をうっとりさせても、愛があるかどうか、口先だけかどうか。人に気づかれなくても自分には分かります。また、たとえ自分自身を騙(だま)せても、神には一切明らかでしょう。

  2節以下の、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」も趣旨は同じです。

  神の意志を受けて預言を語り、神秘な知識に通じていても、いかに雄弁に語っても、愛がなければ空しいのです。知識はドンドン古くなります。今日は最新の知識も、明日は古くなります。日進月歩の今は一層その感を強くします。しかし愛は少しも古くなりません。

  また山を移すほど完全な強い信仰を持っていても、全財産を貧民のために使い尽くす慈善家や社会福祉家であっても、体を焼かれるために死に渡す程の殉教の死を遂げても、愛がなく、そこに虚栄心や利己心が働いているなら、何の益もないとまで追い詰めます。立派な高尚な事をしても、自分の誉れのためにしているなら、意味は半減し、いや、全く無だと言うのです。

  ここで大事なのは、パウロは他人でなく「わたし」、自分自身を問題にしている事です。彼は、自分の真剣な課題として、私はどうなのかと切実に問うのです。彼は伝道や慈善や社会福祉を全否定しているのではありません。愛を欠くならば空しいことを、自分に妥協しない魂を持って語るのです。

  ここには永遠の求道者とも言うべきパウロの姿があります。自分は完全な愛に生きているとか、それに達したとか言いません。彼は、十字架につき私たちのために呪われるまでになって熱い愛を注がれた愛のキリストを知る故に、キリストに向かって体を伸ばし、愛を捕えんとし、自分の内にキリストの形ができるように生きているのです。彼の魅力はそこにあります。

  別の視点から言いますと、彼は、愛は賜物だと考えているのです。彼は12章の初めで、「霊的な賜物」という表題で色々な賜物について語っていましたが、それに次いで今、「もっと大きな賜物」、「最高の道」である賜物を受けるようにこの個所で教えるのです。

  愛は賜物である。愛を個人の個性や資質と見ていないのです。それは神から授けられるものだと考えているのです。ところが個人の資質のように考える所に落とし穴があります。

  個人の資質と考える時(たとえ賜物と考えても、「私の」賜物、「私の」所有物と考えるなら)、愛は手柄になります。誇りになり、自慢になり、高ぶりになり、その結果、礼を失することにもなるでしょう。また比較して気落ちすることにもなりかねません。(愛は「私の」賜物だと考える方は、「愛」を「私」に変えてお読みください。そうすればいま語ろうとしている意味がお分かりになるでしょう。)そうなれはパウロがここで語るものと違います。むろん愛の深い人はいます。その愛を否定しません。しかし、ここに愛とあるのは、アガペーです。神の愛です。

  第1ヨハネは、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と語った後、「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」と 語ります。愛は神から出、神から与えられるものです。ですから、愛が少ないと痛感する人は、神に愛を求めればいいのです。神は、求める人、捜す人を拒まれません。喜ばれます。問題は求めるのか、求めないかにあります。神は愛を下さるのです。

       (つづく)

                                         2018年9月16日




                                       板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・