未来はそこにあった


セント・ポール大聖堂からフリート通りをチャリング・クロス駅まで2階建てバスに乗って満喫しました。
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                                           明日を思い悩むな (上)
                                           マタイ6章31‐34節




                               (序)
  私たちの心や魂が何を求めているのか。どこを向いているかのが大事だと思います。

  20年程前、金さん、銀さんの双子の姉妹が国民的人気を博してテレビに出ていました。9月になると、100才を超えても元気にテレビに出ていました。ある時、アナウンサーに「出演料はどうしますか」と聞かれて、「老後の蓄えのために」と言って皆を笑わせていました。100才を超えても煩悩がなくならず、「明日への思い煩い」があるので面白かったのです。この方々は何を求め、どこを向いて生きていたのでしょう。

  この間行ったクリニックの待合室に、星野富弘さんの詩画集があって、ドングリとそれを取り囲む何枚もの葉っぱが描かれ、こんな詩が書かれていました。「そこから落ちて 斜面を2、3回 転がって止まったところ そこから 君は自分の未来を 造って行くんだ。」

  ドングリが木から落ち、コロコロと転がってやがて止まった所。そこからドングリは芽を出し、自分の未来を造って行く。ドングリに託して人間の事を歌ったのでしょう。彼自身、まだ若い青年時代に首の骨を折って寝たきりになり、そこから自分の未来を造って行きました。イヤだ、イヤだ、こんな人生はイヤだと、何度声を荒げたでしょう。でも聖書に導かれて、止まった所から未来を造って行くと、未来はそこにあったのです。今も首から下が動かない生活です。彼の場合、いったい何を見、どこを向いて生きているのでしょう。

  この2月に、「苦界浄土」などを書いた石牟礼道子さんが90才で亡くなりました。長年美智子妃とも交流があったと聞きます。石牟礼さんが、ある本で、天草の切支丹資料館を訪ねて数々の遺品を見て感じたことを書いておられます。「人は金銭欲や名利の欲とは無縁の所で死ぬことができる。魂の浄化を求めて、死ぬことができるのだという畏怖すべき発見」をしたというのです。彼らの姿は、「上下関係に縛られた、当時の武士社会とは全く別な倫理に生きた人々」であったとも書いておられました。同じキリシタンものを書いても、遠藤周作とはまた違った書きぶりで面白く思います。

  今日の聖書に、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とありました。天草・島原の切支丹が、金銭欲や名利欲とは無縁な世界の根本的なもの、本源的なものを先ず求めた所から生まれた、聖なる畏怖すべきもの。聖なる姿に、石牟礼さんは強く心揺すぶられていたのでしょう。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」という御言葉は、そのような心揺すぶられる思いで受け止めるべき言葉だと思いました。

       (つづく)

                                       2018年9月9日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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