順位のために生きるのか


         シェークスピア・グローブからテムズ川にかかるミレニアム橋を対岸に渡ると、
                     聳え立つ聖パウロ教会が眼前に迫ります。
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                                          君の値打ちが出る (下)
                                          Ⅰコリント12章12-26


                              (3)
  次に23節は、「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」と語ります。

  「恰好が悪い」は、見苦しい、卑しい、品位がないという言葉が使われていますから、そこを人目に曝すのは下品と見られる部分を指すかも知れません。だがそんな部分が体にあるからこそ、「恰好よく、見栄えよくしようと」するというのです。見苦しい部分はより魅力的に、人目を引くものにしようとする。確かに私たちは自然とこれに似たことをしています。最初から見栄えの良い部分はそうする必要はないが、そうでない部分が、上品さ、優雅さ、気品を備えることで、一層優れたものになるというのです。こういう箇所を読むと、パウロは古代のデザイナーか服飾専門家でないかと思ったりします。

  確かに私たちは、ズボンのベルトも単にズボンが落ちないように腰に絞めるだけでなく、女性などは特に、そこが目に留まるように、体形を絞ったり締まりを付けて、目立つラインを作っている所があるのではないですか?

  更に24節は、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」と語ります。ある英語訳では、見劣りする部分に「気品を与えるため」とか、「名誉を与えるため」にとなっています。

  どういうことかと言いますと、神は見栄えする部分や見劣りする部分など色々な部分で体を組み立てられたが、それは、各部分が配慮し合って、「見劣りする部分をいっそう引き立たせる」ためだ。神の創造の意図は、弱い部分が引き立つように、各部分が配慮し合い、協力する為に体を造られたのである。協力、配慮、ここに神のご計画があるというのです。これは非常に面白い発言です。

  私たちは競争社会に生きているので、得てして色んなことを競争で考えます。誰が一番か、誰が優れているか。誰がトップになるか。あいつには負けられない。四六時中、競争で考えているところがあります。競争で考えるとは、効率で考えたり、利益で考えたりすることでもあるでしょう。

  だが神は、各部分が競争して勝者と敗者を作って順位をつけるために私たちを造られたのでなく、私たちの体のように、単純に、各部分が協力する為に、協力の美しさ、尊さを皆で生み出すために造られたのであるという事です。

  これは全体主義の類いではありません。一番強い者の為に他が奉仕するというのでなく、逆に、弱い部分や卑しい部分を一層引き立たせるように互いに配慮すれば、それによって、体全体の名誉が生まれるという事です。これはこれまでの価値観が転倒させられる、非常に斬新な考えです。効率や利益を第1とするのでなくて、皆がゆったりと生き、幸せになる社会です。効率の良さだけで考えると狂って来ます。

  恐らくここに言われたことが社会で実現することは非常に難しいでしょう。利潤追求する自由経済社会は、これとは程遠い所を歩いています。

  しかし、教会までそうであっていいのか。十字架につくまで私たちを愛して下さったキリスト、このお方の下でも競争社会と同じであっていいのかという事です。パウロは2千年前に、非常に鋭く社会と人間を見ています。

  神の創造の御業の中に、互いに配慮し合って、分裂が起こらないようにするという意図が含まれているということです。御業の中に、皆がゆったりと生き、幸せになるあり方、それが隠れて組み込まれている。ですから、神の創造の意図に沿って生きれば、見劣りのする部分に気品や名誉を添えることによって、各部分の協力という特別な誉れが生まれて全体の益になる。人類は神に、そうデザインされているという事です。

  ところが、見劣りする部分に配慮せず、互いに競争させ、劣ったものを排除し、見下げたりすると、折角の神の善い意図を台無しにしてしまい、人類は自分の首を絞めることになりかねないのです。

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  そして最後に、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と語ります。

  苦しむ者と共に苦しみ、喜ぶものと共に喜ぶ。彼は別の箇所では、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と説いています。そのようにして共に生き、共に歩む。本当の意味での連帯という事。皆で共に幸せを望むという事です。

  一般社会の人々は、これこそ私たち人間が生きる社会の意味であるとまだ十分に気づいていないかも知れません。だが、皆一つの体となるために洗礼を受け、一つのキリストの霊を頂いて教会に集められたキリスト者たちは、一足先に、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という、神の祝福の生き方へと招かれているとパウロは見るのです。

  そこに私たち人間の誉れと価値ある生き方がある。この生き方を選ぶ時に、生きると事の尊さが一段と明らかになる。競争にも善さはあるが、それが最優先され、バラバラに得て勝手に生きると人間の尊さが失われるのです。だが互いにいたわり合うことによって、万物の霊長と言われる人類の価値が輝き出す。それが世界の歴史の中で教会が目指して来たものであり、神が私たちに教えて下さった貴い宝である。パウロはそういうことを教えるのです。

  一つの肢体が痛み、傷つけば、他のすべての部分が痛み、一つの肢体が尊ばれれば、他のすべての部分は喜びを分かち合う。大山教会は、これからもこのような教会を目指して進みたいと思います。



        (完)

                                       2018年9月2日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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