もはや教会でなくなる


 ロンドン・アイを離れたクルーズ船はビック・ベンを対岸に見ながら川下に降りました。   右端クリックで拡大
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                                          君の値打ちが出る (上)
                                          Ⅰコリント12章12-26



                               (1)
  今日からまた子ども達が教会に戻って来て、何かほっとしたような思いです。子ども達との礼拝は、喉の渇きを潤す一杯の水のような新鮮さがありました。お話しくださったAさんは色々工夫してお話し下さって、その工夫のあとがよく分かりました。有り難うございました。

  さて今日は長い箇所です。今、パウロはコリント教会に手紙を送って、キリストにある者たち、即ち教会について、人間の体を例にとって、体は一つである。手足や目や耳など、体の部分は多くあっても、体は一つだと、色々実例を挙げて語っています。そして体と同様、私たちは皆、キリストにおいて、「一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」と語ります。

  彼は、教会を一つの有機体に見立てました。互いにメンバーは関係し合い、補い合って生きる生命体に似ているからです。ですから1つの部分が何かの理由で欠ければ、生命体には大きな痛みになります。1つが傷つけば、体全体が痛みます。痛むどころか真っ赤な血が吹き出ます。互いに祈り、信頼し、愛し合っているからです。

  一つの部分が欠ければ、欠けた部分の方は気づかなくても、教会の方は苦しみ、欠けた者のために日夜祈り、嘆くのです。金銭関係や利害関係また上下関係がある訳でなく、教会は純粋に人格関係だけで成り立っている訳で、恐らくこういう所は他に少ないと思います。これは教会の弱点でなく、教会の持つ特性であり、欠けた者たちへの純粋な愛のゆえに嘆きが起こるのです。

  教会は企業ではありません。教会の本質は祈りと愛です。この本質を知らなければ痛くも痒くもありません。だが教会とは何かを知る人なら、悩み苦しみは巨大です。いなくなった羊を探して、羊飼いが懸命に探すのに似ています。教会はその事の為に悩み苦しんでいいのです。もし教会が、一つの枝の為に苦しまなくなれば、恐らくもはや教会ではなくなるでしょう。

  今日の箇所全体から、先ず祈りと愛に生きる教会の特性を考えさせられます。

                               (2)
  さて、もう少し内容に入りますが、先程子ども達に前半を分かり易くお話し下さったこともあり、この個所は長くもありますので、22節以下を中心に考えましょう。

        (つづく)

                                       2018年9月2日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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