謙遜でなく本心から


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                                         火で味付けしなさい (中)
                                         マルコ9章42‐50節



                               (2)
  次の42節も胸を熱くさせられる言葉です。これは41節とは反対の視点からですが、同じ事が語られています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」これも小さな者への愛が主題です。

  神の愛の大きさを語るために、一人の小さな信仰者を躓(つまづ)かせる者に向けられた掛け値なしに厳しい言葉が言われたのです。だが同時に、信仰者には、身に余るほどの神の愛の重みを感じる言葉です。

  キリストを信じる者はみな、「小さな者」です。誰でもキリスト者は、謙遜でなく本心から自分を小さな者と考えています。今はまだそう思っていない人でも、キリストにある時、それが徐々にはっきり分かってきます。この世的にどんな大きな者でも、神の前では実際に私たちは皆小さい者だからです。

  だが、このいと小さい者を躓かせる者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」小さい者と巨大な石臼とのコントラストに目を見張ります。この石臼は、主婦が粉を引く、持ち運びできる小さな手臼のことではありません。ロバや牛に引かせる重さ何百キロもある巨大な石臼のことです。

  いと小さい者を躓かせる者は、釣り合わないほど巨大な石臼を、何と首に付けられて海底深く沈められる方が遥かに良い。これは比喩であって実際そうされるというのではありませんが、比喩である故に、それ以上のものを指す可能性もあると考えなければなりません。侮ってはなりません。

  また躓かせる者への神の裁きの大きさを比喩的に語ることで、キリストを信じる小さな者たちへの神の愛の大きさ、真実さも余すところなく語られたのです。世の人々によって迫害を受けても、信仰者たちはここまで大事に守られ、擁護され、心に掛けられる。イエスはそう説かれました。

  「躓(つまづ)かせる者」とあるのは、転落させる者、罠(わな)に掛ける者、障害物を置く者という元の意味から、キリストから引き離す者、信仰をなくさせる者を指します。そうした者への厳しい警告です。

                               (3)
  ところが、一転、次の43節からは、当のキリスト者自身への警告になります。……

       (つづく)

                                       2018年8月26日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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