一切れのパンのため罪を犯す


                         百歳?の貴い手 Independent
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                                          空腹のつらさ (中)
                                          マルコ8章1-10節



                               (2)
  「空腹のつらさ。」これをどう見るかです。

  私たちは今、特に過去の歴史を勉強することが必要になっています。戦前生まれの人が今やたった2割になり、8割が戦後生まれになったからです。ですから益々過去の歴史を学ぶ必要があります。8割だからもう戦前の古い事は不必要という事にはなりません。むしろ戦前の事を率先して学ばなければならない時代に入ったのです。今日も礼拝後に「平和集会」を開いて、ビデオを見ます。今日のビデオは戦後間もなくの日本社会の状態です。内容は未だ見ていませんが、そこから何ものかを学ぼうという事です。人間とは何か、それは歴史から学べるのです。それは人間に真摯に向き合うという事でもあります。

  歴史をごまかしてはなりません。歴史を決して誤魔化したり、改竄(かいざん)してはならないのです。特に国の指導者は歴史の前で謙虚でなければならない。むろん隠れているもので現われないものはありませんから、今は隠しおおせても、神は必ず鋭い一矢を報われますが、人はその前に自分に正直でなければなりません。

  「空腹のつらさ」のことですが、箴言にあるように、「誰でも一切れのパンのために罪を犯しうる」のです。箴言は「誰でも」と語りますが、これは真実だと思います。

  少し極端な例を挙げますが、今から2600年ほど前、都のエルサレムが陥落し、多数の人がバビロニアに強制連行されました。これまで人で溢れていた都が――日曜日の大山のハッピーロードを想像してみて下さい――、閑散となり、誰も住む者がない瓦礫の都になったのです。山犬が、ジャッカルが住む所になったと書かれています。

  僅かに生き残った母や子どもがいましたが、都にすっかり糧食が尽き、助かった彼らも傷つき衰え、「パンはどこにあるの?」と言いつつ子どもが息絶えて行く有様でした。そういう状況の中で、哀歌はこう記しています。「憐れみ深い女の手が、自分の子どもを煮炊きした。わが民の娘がそれを食料とした。」耳を疑います。何と酷い人だというかも知れません。

  だが「空腹のつらさ」の中、そんなことが起るのです。それが人間というものです。そら恐ろしい姿を有するのが、我ら人間です。反対から言えば、自分の子どもを煮炊きして飢えをしのいだ人が、平和な時代には、コロッと変貌して「憐れみ深い女」や男として生きているということでしょう。これは恐ろしい事です。人間として全くたまらない事実です。そこまで罪を犯すのが私たち人間だという事を、聖書は直視するのです。

  日本人も戦地で何をしたか。決して自分が戦地でしたことについて口を割らずに死んでいった何千もの人たちがいたのです。戦後の家庭では穏やかな良い父でした。だが、もし彼らが正直に事実を証言してくれていたらどんなに良かったでしょう。特に公的な機密文書を真っ先に焼却して、決して足がつかないようにした士官たちもいました。アウシュビッツを訪ねた時、彼らが撤退する時、大急ぎで重要な文書を焼却し様々な施設を爆破して逃げました。焼却や爆破は、どれだけ知られては大変なものであったかを証明しています。

  今年も4日前に、8月15日を迎えました。戦争がいかに悲惨な社会を生むか。やはり実際の歴史を知らなければなりません。

  Aさんがいらっしゃれば、戦後すぐの上野や浅草界隈の様子を生き生き話すのをお聞き出来たでしょう。東京は一面の焼け野原で、上野駅の地下道や上野公園には、浮浪者や浮浪児が足の踏み場もないほど溢れたのです。当時の写真をご覧ください。これは大げさな表現ではありません。全国の孤児総数は沖縄を除き12万人でした。朝起きれば、路上、自分の隣でそのまま死んでいる子どももいました。浮浪児は栄養失調と病気で、弱い子の順に死んでいったのです。

  でも、戦争を始めた日本政府や責任者たちは、おにぎり一つ子ども達に配給しなかったと孤児経験者らは語ります。私財を投げ打って責任を負う責任者たちはいなかったのです。ドンドン死んでいく孤児たちがいるのを知っているのに、です。自己責任だとして誤魔化したのです。元軍人や遺族には恩給が出されたが、親を失った子どもらは、死に行くに任せたのです。今年も8月15日の全国戦没者追悼式がありましたが、こういう子ども達はどこにも覚えられていません。誰からも追悼も慰霊もされず、一輪の花もお供えされることなく「空腹のつらさ」の中で、国に捨てられたのです。

  生き延びても孤児は惨めだったそうで、親のない孤児たちは、足元を見られて低賃金でこき使われました。政府は浮浪児狩りさえしました。生き伸びても、彼らに付いて回ったのは偏見と「空腹のつらさ」でした。

  戦争は多くの戦死者を出すだけではありません。戦後も「空腹のつらさ」を残し、浮浪者、浮浪児たちを出し、彼らを死に至らしめるのです。戦争は絶対してはならない。絶対しないような憲法、絶対しないような外交が政府の責任で為されなければならないでしょう。今年の8月15日は、こんな課題を私たちに気づかせました。


          (つづく)

                                       2018年8月19日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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