同じものを見ながら真相が見えない


                    ハテ何でしょう?
       シェークスピア・グローブの帽子。劇場は青天井、日差しが強い時にかぶります。
                 雨の時は傘を差して観るそうですよ。
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                                          空腹のつらさ (上)
                                          マルコ8章1-10節



                               (1)
  今日は4千人の給食の出来事から学ぼうとしています。普通はこの出来事の後半に焦点を当てますが、今日は前半に目を留めて、「空腹の辛さ」という観点から学びたいと思います。ですからかなり聞き慣れないメッセージになろうかと思います。

  日本では餓死する人より、食べ過ぎで死ぬ人、栄養過多で肥満や糖尿病で亡くなる人の方が多いでしょう。しかし国連の調べでは、今なお約8億人が毎日空腹を抱えて眠りにつくという事です。犬や猫でなく人間です。75億人の約1割の、神の像に似せて造られた人です。それだけでなく3分の1、約25億人が栄養失調です。これは非常に考えさせられるデータです。しかし日本人は、余りにも彼らに無関心で、自分中心に暮らしているのではないでしょうか。

  マルコ福音書とマタイ福音書には、共に2つの給食の事件が書かれています。マルコでは6章の5千人の給食と今日の個所です。どうして同じような出来事が記されたのか色々な説があります。6章の方はユダヤ人たちへの給食の事件ですが、今日の8章は外国人らが住むティルスあるいはデカポリス地方であった話です。ですから2つの事件は場所が違い、給食の相手が違うのです。

  話はこうです。イエスの所に大勢の群衆がやって来たが、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちに、「群衆がかわいそうだ。もう3日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」 とおっしゃったのです。

  3日間断食をした方はおられますか。私はありません。2日半なら青年時代にあります。同期の社員で、同じ教会に行っていた青年と断食しました。水は飲んでいいのですが、仕事もしていますから、2日半でも中々苦しいものでした。20代前半は元気で、何でも好奇心がありました。彼とは、土曜日に仕事が終わり、吉田口までバスで行って、夜通し歩いて富士山に登り、その日に須走りを駆け降りました。彼は何か思いつくと私を誘いまして、水泳も週2回昼休みに会社のプールで泳ぎました。その後、彼も転職して静岡の高校の教師になったようです。

  イエスは3日も食べていない群衆を見て、「かわいそうだ」と言われたのです。先程も言いましたが彼らはユダヤ人でなく、外国人です。何と気の毒なんだろう。断腸の思いという言葉がありますが、腸(はらわた)が痛んで千切れるほど可哀そうだと思う事です。イエスユダヤ人にも、外国人にも真に公平であられたという事をこの事件は語ろうとしているのかも知れません。

  また、「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。」これは、疲れて潰(つぶ)れてしまう。気絶するという意味です。今流に言えば、直ちに病院に搬送しなければならない程、危険な状態だという意味になるでしょう。何しろ炎天下で、空腹の上、水も少ない乾燥地ですから熱中症になるかも知れません。

  ここからも、イエスの愛は何と現実的であるかが分かります。イエスは抽象的な所で生きられません。食の問題、生命の維持、命の尊厳を真剣に考え、共に苦しまれたのです。そして後半で、今日は触れませんが、問題を解決して行かれたのです。

  ところが弟子たちは、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」 と言っています。6章では弟子たちが、彼らを解散させれば、自分で近隣の里や村に行って、食べ物を手に入れるでしょうと言ったとあります。

  イエスは群衆の飢えを心配して真剣に彼らの身になって考えられますが、弟子たちは他人事(ひとごと)のようです。彼らの自己責任に任しましょうよと冷たく突き放しています。

  理由として彼らは、「こんな人里離れた所で」と述べています。しかしイエスにしてみれば、「こんな人里離れた所」だからこそ、他人事でなく、真剣にならざるを得ないのです。

  この言葉は、単に人里離れた辺鄙なところと言うのでなく、砂漠や荒涼として荒れ果てた所のことで、ひいては慰めがない、希望がない場所を指す言葉です。

  イエスは、彼らが何日も空腹に置かれ、希望をなくして潰れそうな状態を、深刻な危機としてご覧になったのです。しかし弟子たちは希望を失っている彼らの姿が目に入らないように見えます。同じものを見ながら想像力が欠如しているのです。

          (つづく)

                                       2018年8月19日



                                       板橋大山教会  上垣勝



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