仕える者になろう



 夏の空に飛ぶ宝石とも言えるギンヤンマが、昨夜なんと都内の我が家を訪れました。
    小学生の頃、ギンヤンマの色彩、羽の軽やかさ、曲線、そして透ける4枚の翅たちに魅せられたのでした。
        同じように魅せられたデザイナーがいたのでしょう。女性たちの衣装にそれが今結実しています。
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                                        仕える者になろう (下)
                                        ヨハネ12章20‐26節


                               (4)
  次に26節は別の視点から、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と言われました。

  「仕える、仕える者」という言葉が3回程出て来ました。ギリシャ語でディアコノス、ディアコニア、奉仕する、仕えるという言葉です。

  ディアコニッセ運動というのがあります。ドイツの教会から始まり、日本の教会に入って来たキリストに奉仕する婦人たち、奉仕女たちの働きです。深津先生を中心に一時は大変盛んで、日本初の全国的な長期婦人保護施設、「かにた婦人の村」が作られ、その運動のために教会も一般の人たちも献金しました。戦争責任の一端でもありました。現在も「村」は千葉で活動しています。

  何に奉仕するのか。戦後というのは色々深刻な問題をはらむ時期で、断じて2度と戦争をしてはなりませんが、戦後、売春婦として赤線で働き、暴力団からそういう場所で働かされて来た女性が多くいました。中には日本軍の従軍慰安婦として働かされて来た婦人もあります。その人たちが人間としての尊厳を回復するために、奉仕女たちは奉仕したのです。これがディアコニッセ運動です。このギリシャ語のディアコノスから取られています。(テレビの予告では、偶然、今日8月15日夜8時からNHK・Eテレで、「かにた」の天羽さんが取り上げられるようです。)

  ディアコノスとは、「コノス」=チリ、石灰、泥という言葉と、「ディア」=通る、くぐる、かぶるという言葉の合成語です。奉仕とは、地の中に入り込んで、チリをかぶり、泥をかぶること。泥まみれになって働くことです。

  自ら地の中、世の中に入り込んで、汗を流し、泥をかぶることなしにイエスへの奉仕はないのです。汗まみれ、チリまみれになって、汚れることなしにはイエスに仕えることはない。人に泥をかぶらせる人間は多くいます。だが、自ら泥をかぶる。

  永遠の命の「命」は、プシケーという言葉でなく、ゾーエーという言葉が使われています。まことの命、神の命のことです。

  永遠の命、新しい命。それはイエスに従って、自ら泥をかぶる所にある。イエスと共にある者は、イエスと共に汗を流し、イエスと共にチリまみれになって働く。そこに永遠の命が見えて来るということでしょう。そのような新しい生き方の形を、イエスは十字架に付けられる直前にお示しになったのです。

  それが、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉で象徴的に語られた事です。

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  ドストエフスキーに「カラマーゾフの兄弟」という小説があります。膨大な作品で、筋が錯綜して読み難いですが、非常に考えさせられる素晴らしい小説です。世界3大名作の一つに数えられています。

  その冒頭には24節の聖句が置かれています。ドストエフスキーは、このみ言葉を指し示そうとしてこれを描き、このみ言葉に導かれて書いたと言っていいでしょう。

  主人公はアレクセイ・フョードロヴィッチ=アリョーシャという青年です。筋は申しませんが、ドストエフスキーは、この主人公について伝記を書こうとして、「一種の疑惑」を感じていると書いています。この主人公の、「どこが優れているのか、どの点が秀でているのか」と問われると思うからだというのです。また自分は、「彼の優れた点をうまく述べ得なかったかもしれない」とも語っています。ただこれは彼特有のレトリックだと思います。

  なぜなら、「一粒の麦は地に落ちて死ぬのです。」泥をかぶり、チリをかぶって、地に入り込んで死ぬのです。一粒の麦が地に落ちれば、周りの土に混じってその存在すら分らないほどです。姿を隠しています。その偉大さを隠している。やがて芽が出て、麦の穂を付ければその素晴らしさは見事ですが、それまでは、多くの人は落ちて死んだ麦のことなど考えないのです。だが、隠れた所に偉大さがある。神の目にはその素晴らしさが明らかだが、目が節穴だと解らない。ドストエフスキーはそう言いたいのでしょう。

  アリョーシャは自分を助けません。救いません。ただ人を愛し、その人も知らない長所を発見して気づかせて生きるのです。希望を与えるのです。上から何か言うのでなく、その人の足元で光を発するのです。

  そこに、人の目に隠され、神の目にだけ顕れた素晴らしい命があるのです。

  私たち一人ひとりが、地に入って、家庭で、職場で、何かのグループで、困難があろうが、難しかろうが、いや難しいのですが、世の片隅で希望の光をともす人になることが出来るように。イエスはそれを弟子たちに願われるのです。

  一粒の大きい種になろうとか、影響力の大きいものになろうというのでなく、小さな種でいい。そこに命が込められ、祈りと愛が込められていることが大事です。イエスは、私たちに仕えて下さったのです。私たちの為に死ぬまで愛して下さった。だから目立たぬ、小さな事にも信仰と祈りを込め、愛を込めて、地の中に入って汚れながらも仕えるのです。自分を救おう、自分を救おうとばかりしていては、必ず自分を失ってしまいます。

  この社会にいると、私たちの足は汚れます。だからイエスは次の13章で、死の前日、弟子たちを極みまで愛し、彼らの足を洗われたのです。私たちも教会でイエスから足を洗って頂くことは不可欠です。汚れていない人はどこにいるでしょう。洗って頂いてこそ、また元気に世に出て行って、汚れても仕えていけるのです。泥をかぶらないでどうして世に入れるでしょう。

  目立たない小さい事に愛と祈りを込めて仕える。先程配りました、聖フランシスの「平和の祈り」も、そういう事を語っていると思います。

  「主よ、わたしを平和の器とならせて下さい。
    憎しみがあるところに愛を、
    争いがあるところに赦しを、
    分裂があるところに一致を、
    疑いのあるところに信仰を、
    誤りがあるところに真理を、
    絶望があるところに希望を、
    闇あるところに光を、
    悲しみあるところに喜びを。

   主よ、慰められるよりも慰める者として下さい。
    理解されるよりも理解する者に、
    愛されるよりも愛する者に。
    それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
    許すことによって赦され、
    自分のからだをささげて死ぬことによって、
    永遠(とこしえ)の命を得ることができるからです。アーメン。」

  聖フランシスは今日の箇所を読みながら、この平和の祈りを唱えたのでないかと思うほどです。小さい憎しみや争い、些細な分裂は至る所にあるのではないでしょうか。だが、憎しみがあるところに愛、争いがあるところに赦し、分裂があるところに一致――泥まみれにならなければできないでしょう――、疑いのあるところに信仰、誤りがあるところに真理、絶望があるところに希望、闇あるところに光、悲しみあるところに喜び……を――やっぱり泥まみれです――、もたらす者にして下さいと祈っています。しかも最後に「永遠の命」の事まで触れていて、イエスがおっしゃったことに通じています。


       (完)

                                       2018年8月12日




                                       板橋大山教会  上垣勝



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