パパのような神


           クライスト・カレッジの正門で。オックスフォード大。      右端クリックで拡大
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                                           取るに足らぬ僕 (中)
                                           ルカ17章7-10節



                                (1)
  さて、この17章には、雑多な話が出て来て、それぞれ趣旨が違います。1節からは信仰に生きる者を躓かせる者の罪の大きさが出ています。5節からは、からし種一粒ほどの信仰についてです。11節以下は、感謝してイエスの所に帰って来たのは重い皮膚病の外国人だけだったという話。一つ飛んで最後は、神の国に対する心備えが語られて、まとまりがありません。敢えて言えば、この章は主に仕えるとはどういうことかを語っていると言えるでしょう。

  今日の所は、「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか」、むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」とありました。

  2千年前のパレスチナ地方の主人と奴隷の関係が取り上げられています。ただ、ここにある主人と奴隷の関係は、ギリシャやローマ、そして世界の至る所で色々な形で実在したものです。もっと厳しい関係だった所もあります。

  イエスはその事を例に出して、畑を耕すか、羊の世話をする奴隷が畑から帰って来た場合、主人は「直ぐ食事しなさい」とか、「腹が減って、疲れたでしょう。さあ、すぐ来て食事しなさい」などと、温かい言葉を掛けるだろうか。自分の子どもにはそうするでしょうが。でも奴隷には決してそんなことをしないと言った後、むしろ、「夕食を用意してくれ。直ぐ食事だ。ワシは腹が減った。エプロンをかけて食事がすむまで給仕してくれ。その後食事するがよい」と言うだろう。それが一般社会で行なわれている事だと言われたのです。イエスは現実社会をよく知っておられるのです。

  そしてまた、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」と、世の主人の姿を示されたのです。

  世界の奴隷制度は少なくなりましたが、それに類した事はまだ残っています。東南アジアに行った時、インドから旅行に来て滞在していた3世代の家族、10人程がありました。小さい赤ちゃんは未だオムツが取れない年令で、小学生程の子ども2人がいました。そこに、奴隷とは申しませんが、男女の僕がいました。2人は終始緊張して、彼らの脇に控えて待っていました。そして別に話していないのに、直ちに若奥さんから赤ちゃんを受け取ったり、渡したり、また家族が出かけるのに必要なものをサッと気づいて差し出していました。小太りの口数少ない主人は一言も言いません。しかし僕はサッと動いて必要なものを差し出すのですが、主人はありがとうとも何も言いませんし、主人だけでなく、奥さんも息子や若奥さんも一切、礼もねぎらいもありません。私は少し離れた所から観察していて、その主人と僕とは、絶対服従の凄い関係だと思いました。海外の刺激はこういう所にもあります。

  日本人も海外駐在で、数人の召使いを置いている人がざらにあります。そういうお家ではどうなんでしょうか。旅の恥はかき捨てといいます。大丈夫でしょうか。

  イエスはそこまで酷い主人と僕の上下関係を言っておられると思われませんが、当時の世間の実例を出して、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と、言われたのです。

  これはむろん人間同士の関係でなく、神と私たちの関係を指しておられます。目に見えぬ神との関係は、これと同じだ。自分に命じられた事を皆果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。これが主なる神に仕えると言う事だ。主なる神に、この様な信仰と信仰の振る舞いこそ、神を神として生きると言う事だ。「力を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」主なる神を愛せよ」と言われていることだとおっしゃったのだと思います。

  ただ今の日本人は、それはちょっと酷いと思うかも知れません。余りにも神に馴れ馴れしくなっている。私のパパのような、もの分かりのいい神!そこに大きな問題があるかも知れません。

  ただ明確に区別しなければならないのは、イエスは人間同士の関係で言っておられません。ただ超越者である神と人の関係はこれ程のものだと言う事です。

  Aさんがまさか召されるとは思いませんでしたが、葬儀でAさんが大切にされた聖句を紹介しました。Aさんは、「あなたは…、あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどられる神」という、ダニエル書5章の言葉を大事にされたのです。これは一言で言えば超越的な絶対的な神です。この唯一の神の前に額づく。その事を最も大事なこととしてAさんは生きられたと言う事です。神との交わりを大切にしながら神に服することを忘れなかった。

  預言者ダニエルが言わんとするのは、たとえバビロンのベルシャザル王と言えども、いと高き神の前では、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言」うべきである。それがバビロンの大王と言えど、主なる神に対して取るべき正しい態度だと、ダニエルはそういう言葉ではありませんでしたが、大胆に預言者ダニエルが語り、今日の所でイエスが言っておられる事だと言っていいでしょう。

  たとえベルシャザル大王と言えど、イスラエルの神殿から神の器を略奪して来て、それで重臣たちと、妻や大勢の側めたちと酒を酌み交わし、宴を開くべきではない。父親のネブカドネザル大王がどういう最期を遂げたかを知り、神の働きはどういうものかを知ったに拘わらず、なお尊大に振舞い思い上がっている。あなたは悟るべきである。

  彼もまた、神が命じられることを皆果たしたら、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言って、神に仕え、人に仕えるべきではないかと言うのです。

      (つづく)

                                         2018年7月29日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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