血による調印
上は今日の赤い皆既月食、下はアテネのポセイドンに上る皆既月食前の満月。The Independent。
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変革の秘密兵器 (中)
Ⅰコリント11章23‐29節
(2)
さて、パウロが初代教会から受け継いだのは、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」という事です。
これはマタイ、マルコ、ルカ福音書にある最後の晩餐の場面とほぼ同じです。これは2千年間、教会にとって大変大切な出来事ですから、現代も聖餐式にはここが読まれます。
「引き渡される夜」とは、裏切られ、売り渡される夜としている聖書もあります。パンを「裂き」という言葉が大事なのは、イエスの体が引き裂かれた事を暗示するからです。
「これは、あなたがたのためのわたしの体である」という言葉には、幾つかの解釈があります。一つはカトリックの解釈で、ミサでこの言葉が唱えられるや、直ちに物質のパンがキリストの体そのものになるという、いわゆる化体説です。第2は、パンはキリストの体の徴であり、象徴だという解釈。それは単なる徴に過ぎないと考えます。3番目は私達のプロテスタント教会の解釈で、信仰を持って受ける時、パンはキリストの体として恵み深く働くのです。反対に信仰を持って受けないなら単なるパンに過ぎません。キリストの意味はそこにありません。
「わたしの記念として」という言葉が2度出てきます。記念とはアナムネーシスという言葉で、想起すると言う意味です。追想や思い出ではなく、主の体と血を想起し、今、自分の為に主が体を裂き、血を流し、何物にも代えがたい高価な恵みに与っている事を想起し、味わうのです。
「新しい契約」とあるのは、エレミヤ書31章で預言された「新しい契約」が、キリストの血によって立てられたことを指します。「新しい」という言葉は、先週学んだカイノスという質的な新しさ、画期的新しさを指す言葉です。即ちモーセの十戒とは質的に異なる新しい契約が、イエスの血によって立てられたという事です。「血によって立てられた」とは、血で捺印された。血をもって調印し、批准し、最終的に確定されたという意味です。
そのような新しい調印が神とキリストの間になされた。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」とパウロは語るのです。
聖餐が大切なのは、それに与る度に、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせ」られるからです。即ち言葉では表現できない決定的な犠牲が私の為に払われたこと。血によって捺印されたこと。その恵みの大きさ、高価さ、私の罪を贖って下さる確かさ、力強さを、主が再び来られる終りの時まで、いかなるものにも阻まれずに、決定的に告げ知らせるからです。
カトリックはこのことを大切にしていると思います。彼らの礼拝はミサと言いますが、ミサとは聖餐式の事です。彼らは礼拝にたとえ説教がなく、沈黙のうちに、主の死を告げ知らせる聖餐式、ミサだけが行われても、力強く福音宣教がなされると確信しているのです。それほど聖餐式は発信力があると考えるのです。敬服に値します。
それほど確かな尊い力強い聖餐だからこそ、「ふさわしくないままで主のパンを食べ、杯を飲んだり」してはならないこと、よく自分を吟味して味わうべきこと、そうでなければ、「主の体と血に対して罪を犯す」、「自分自身に対する裁きを飲み食い」することになるとさえパウロは語ります。それほどの敬意を払って聖餐に与るべきだと語るのです。これはあくまでも信仰者に語られているのであって、未信者ではありません。
彼が、キリストの体と血を味わう聖餐を、ここまで心を込めたて厳かな取り扱いをするのは、彼自身、聖餐に与る度に、キリストを前にして、キリストから直接、パンと杯を頂いているという活き活きした実感があったからでしょう。そういう活き活きした実感が私達にもほしいと思います。
(つづく)
2018年7月22日
板橋大山教会 上垣勝
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