福祉サービスを越えるもの
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変革の秘密兵器 (上)
Ⅰコリント11章23‐29節
(序)
一昨年の5月、JOCSキリスト教海外医療協力会のワーカーで、バングラデシュの重い心身障碍者施設のリーダーをしている岩本直美さんにおいで頂いてお話を聞きました。大変いい集会で、ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
岩本さんは世界的組織を持つラルシュ共同体のバングラデシュのリーダーですが、その共同体が目指すものを最近知りました。それは、Beyond Service。Beyond Serviceとは、福祉サービスを越えるものという意味です。公共の福祉サービスと言っても競争や営利の要素がないわけでは有りません。出世の足掛かりにする人もあるでしょう。だがバングラのラルシュは福祉サービスを越えるものを目指しているという事です。大変高邁な理念ですね。
福祉サービスを越えるものとは愛でしょう。福祉は愛でありません。愛に近いですが、似て非なるものです。むろん社会福祉は必要です。だがそこに常に欠落する大切なものがあります。それが愛であり、この愛が本来福祉の原点では活き活き躍動していた、祈りも働いていたのですが、こと福祉になってしまうと福祉を幾ら高く積み上げても愛にはなりにくい。
Beyond Serviceとは善きサマリア人であろうとする事です。バングラデシュというと日本人は後進国と思っていますが、この肝心な事をバングラデシュのラルシュは気付いて、こうした高い目標を掲げているのだと知りました。
(1)
さて、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。…」とありました。パウロは直接イエスと面識はありません。ここにある最後の晩餐の場面は、彼が初代教会から聞いたもので、パウロも他の弟子たちも互いに共通の基盤に立って活動していました。
ただパウロは、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と書くように、彼は他の弟子たちの言葉を単に鵜呑みにしないで、自分自身が主から啓示を受けて、最後の晩餐の深い意味を示されたと語るのです。
キリスト教信仰はマインド・コントロールや洗脳ではありません。もし催眠状態にして洗脳するものなら、私は直ちにキリスト教を捨てたいと思います。パウロが23節で語るのはそういう事です。自分の頭で思索し深め、自分自身が「主から受けた」のであって、自分の意志でキリストを信じたのです。オウムの信者や統一原理の信者のように、誘導されたり、脅迫されたり、騙(だま)されて信じたのではありません。
彼は、それを主から受け、それを感謝し、ここに自分の生きる原点があると認識して告白した。それをあなた方、コリントの人たちに伝えたと語るのです。
彼は、信仰の核心は人間の独創的な発明ではないと考えています。自分が瞑想で悟り、独創的境地を拓き、それを他の人々に伝授するのではないのです。もし悟りを拓き、それを人々に伝授するものなら、れっきとした教祖です。もし教祖なら自分に帰依させ、自分を礼拝させる可能性が生まれます。新興宗教は特にそうです。そのために手段を選ばず、洗脳もします。だが、彼はそんなものにいささかも関心がありません。自分は主から受けた者であり、主に仕えるものだと言いたいのです。
イエスご自身、「誰でも私について来たいと思う者は」と仰いました。「ついて来たいと思う」かどうか、信じ従うかどうかはその人の自由、自発性に任せられたのです。
キリスト教からは浅原彰晃や文鮮明は生まれません。それは人を騙すもの、欺瞞です。彼らは自分を礼拝されるべき存在とし、独裁的権威を持つ者だとして容赦なく自分を押し付けました。
(つづく)
2018年7月22日
板橋大山教会 上垣勝
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