リスクを冒すパイオニア


                   車山高原・藤森清治切り絵        右端クリックで拡大。
                               ・



                                          新酒のワインの力 (下)
                                          ルカ5章37-39節


                               (3)
  先週、お隣のA教会の牧師就任式に家内と行きました。茶話会が終わって帰ろうとしたら、目の前に座っていた中年の女性が話しかけて来ました。聞くと、私の高校時代の同級生を知る人で、私も新聞であったかこの方の活動を読んだことがありました。

  人生は面白いもので、実は私のその同級生は文章を書くのが好きで、この方の事を何かに書いたのです。しかしそれは変に曲げた誤解を与える書き方だったので、この方は強く削除を求めました。実は私も同級生にやはり曲げられて書かれて不快に思ったことがあったのです。同一人物から不快に思わされた2人が、思い掛けない所で同席したのです。こんな事が人生にあるかと本当に驚きでした。定年までは彼もある程度柔軟さのあるいい男でしたが、定年後、自説を曲げない執拗な性格が酷くなったようです。老人性の何かが出たのかも知れません。

  今、申し上げたいのは同級生の事でなく、初めてお会いしたこの女性です。彼女は都内のある教会のメンバーで、頂いた本を読んで、世の片隅に人知れず苦労している人たちの窮状を知って、直ちに行動に移す素晴らしい人だと知りました。神と人に仕え、主にお応えして行こうというメリハリある生き方をしている信仰者です。

  具体的には、地方では治療ができない病気治療で上京する人たちの家族は、病院では泊れませんから、ホテル生活をします。すると病人の治療費の他に自分の宿泊費が要って、治療が数か月続く場合もあり、大変な負担になります。

  そういう人にごく安い部屋を提供しようというのです。今流行の民泊とは違います。外国では以前から福祉の取り組みとしてありますが、日本は遅れている。それを解消しようと開設した方でした。

  何でもパイオニアは苦労しますしリスクが多くあります。でもこの方は決断力と実行力が共にある方で、主に委ねて進む人でした。言わば新しい新酒のぶどう酒を、リスクがあるに拘わらず、全く新しいカイノスの革袋を用意して入れるような方でした。

  しかも現代社会で困難に直面する方にもっと寄り添うために、50代になってからでしょうか、魂の癒しを学ぼうと東京から京都に移って同志社の神学部に入り直し、大学院にも進んでおられます。繰り返しますが、新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる。生活のためでなく、使命のために生き方を新しく変えて生きておられる信仰者でした。

  「主の祈り」は、そういう神への質的に新しい活き活きした態度を引き出す祈りです。古い生き方のままだと、もしかすると革袋が張り裂けて神の恵みがこぼれ出て、恵みが無駄になるかも知れません。

  こういう活き活きはどこか遠くにあるのでなく、イエス様にお応えしたいという小さな様々な業の中にあります。取り立てて申しませんがこの教会の中にもあります。聖書で言えば、高価な香油をイエスに注いだ女性もそうですし、お言葉通りこの身になりますようにとお答えした母マリアがそうです。ザアカイもそうでしょう。

  新しいぶどう酒は発酵中でぶつぶつとガスが沸き立っています。活性状態ですから活き活きしています。ですから危うさもあり、爆発しそうです。イエスの福音には、この質的に新しい、事によればユダヤ社会を爆破しかねない程の預言者的エネルギーが詰まっています。だから保守的なファリサイ派や律法学者、この世的な祭司長、長老などはイエスに猛然と反対し、十字架に付けたのです。

  福音を本気で生きれば、危険が伴いリスクがあるでしょう。「先ず神の国と神の義を求めよ。」この言葉も、本気で生きればリスクがあります。皆さんも、今から牧師の道に進むなら、何かと犠牲にしなければならないでしょう。若い人でも同じです。この「先ず」は、そういう力を持ちます。「愛は多くの罪を覆う」という素晴らしい言葉でも、一旦それをするとなればリスクがあります。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」ここには更なるリスクがあるでしょう。しかし、イエスはリスクを犯して十字架で私たちのために血を流されました。その福音を私も生きなくていいのでしょうか。

  本当に真実な事は全てリスクを伴います。リスクを避けては、人生はつまらないでしょう。

  「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく……。」そんなことをすれば、益々相手を図に乗らせるだけでないか。悪を赦せば一段と悪辣な悪を為されるのでないか。私たちはそんな恐れも持ちます。だがイエスは、「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と、十字架の福音を全身全霊で受け留めて従うように言われたのではないか。「主の祈り」は、そういうことを、私たちに問いかけて来る祈りでもあります。

  私は今、結論を申しません。ただ今日の聖書は「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなさい」と語るのです。そして「主の祈り」には、この未知とも言うべき質的な新しさがあります。

  では今日の夏季集会を通してみんなで次の事をお考え下さい。
1)自分に罪を犯す者を赦せるのか。どんな時に許せたか。
2)自分の日毎の糧を確保するのも難しい中で、果たして「我ら」の日毎の糧まで思い遣れるのか。ペットも「我ら」なのか。なぜイエスは、「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」と言われたのか。
3)こん日、我らの試みや誘惑とは何か。
4)「主の祈り」を祈りつつ生きるとはどういうことか。
5)その他、自由に語り合って下さい。主の導きがあることを祈ります。


          (完)


                                         2018年7月15日



                                         板橋大山教会  上垣勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・