顔を洗って出直して来い


                           車山高原(2)        右端クリックで拡大。
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                                         主の祈り (4)
                                         マタイ6章9-13節


                              (3)
  次に「主の祈り」後半に入ります。その最初が「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」です。

  「主の祈り」の前半は、神に関する祈りでしたが、後半は日々の糧や罪の赦しなど人間についての祈りです。イエスが教えられたのは、神への切なる祈りなしには、人間についての切なる祈りは起らないと言う事です。また人間への切なる祈りがない所では、神への切なる祈りもないと言う事です。前半と後半は堅く結びついて一つです。

  「我らの日用の糧を今日も…」、無論日曜日の糧ではありません。日々必要な肉の糧、10年、20年の糧ではありません。今日の男性約2,200カロリー、女性約1,800カロリーの糧。しかし貧しい国ではこの半分のカロリーも摂れません。

  先ず注目したいのは、「我らの糧」であって、「私の糧」ではありません。我らは人類すべてです。今はまだ不可能でも、クリスチャンは永久にこう祈るでしょう。主が教えて下さった所から、後退しません。

  イエス時代、自分の日毎の糧さえ得られるかどうか危うい時代でしたが、「我らの糧」と祈れと主は語られたのです。大抵、食糧の事、経済の事で紛争が起こって来ました。「私」から「我ら」への、広がりあるこの祈りは、紛争の平和的解決法を見つけるよう促すでしょう。従って、「平和を作り出す人たちは幸いである」と言われている者たちは、努めて「我らの日毎の糧」を祈るのです。

  私の腹を満たすパンの問題は、物質的問題ですが、我らのパンの問題は、隣人愛の問題になります。今日、世界に何億という餓死寸前の子どもがいる。この子ども達も私たちの兄弟姉妹であり、地球の人間仲間です。日本でも安倍政権になり、子どもの貧困が広がっています。私たちが今日一日を隣人とどう生きるのかという事は、愛の課題、神の前でどう生きるかという人類の精神的な問題です。

  ただ、「我らの日毎の糧」のもう一面を忘れてはなりません。これは日毎に霊的な糧をお与え下さいという意味を含みます。肉的な満足を追求するあまり、霊的な魂の充足を忘れていてはいけません。心や霊的な充実がないと誘惑が入り込み易いです。堕落し易いです。

  次に、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りです。この祈りだけは祈れないと言う人があります。赦しの難しさに悩むからです。

  先ず、罪とありますが、マタイは「負い目」となっています。元のアラム語も「負債」です。この祈りは3様に取れます。①我らに罪を犯すものを我らが赦しますから、我らの罪をも赦したまえという意味、②罪を犯すものを我らが赦しましたから、我らの罪をも赦したまえという意味、③罪を犯すものを、今、我らが赦します。我らの罪をも赦したまえという意味。それぞれ一理ありますが、私は③が一番原意に近いと思います。

  ③は、「今、我らが赦します」と祈りつつ、敵を赦す決断をし、しようとしているのです。罪を赦す決断へ神によって導かれるのを祈っているのです。なぜなら、我らは弱いからであり、相手の前に出ると「赦します」と中々言い出せないからで、「主の祈り」において、決意を新たにするのです。

  イエスは弱い私たちを背後から支援して、次の14,15節で、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」 と言われました。自分が相手を赦す決心もしないで、自分の罪を赦して下さいと願うのは、虫が良過ぎると言うことでしょう。

  これは、マタイ5章で、供え物を神に捧げる時、「まず行って兄弟と仲直りし」、それから捧げなさいと言われたことにも通じます。私たちに決断を促しておられる。

  「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」を深刻にとると、祈れなくなる人がいるでしょう。良心が鋭い人はそうなるかも知れません。自分を省みると、赦しが貧弱で、愛が破産していると告白せざるを得ないからです。しかしキリスト教信仰は、自分の愛の破産の上に成り立っています。自分は義人だ、罪はないと言えるキリスト者はどこにもいません。もし自分には罪がないと主張するクリスチャンがあれば、イエスは、「あなたは、見えると言い張る。そこに罪がある。顔を洗って出直して来い」とおっしゃるでしょう。

  「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」これが素直に言えない時は、真ん中に「お助け下さい」を心で言って下さい。「我らに罪を犯すものを、『お助け下さい』、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」これが私たちの素直な思いです。

  あるいはこう考えて下さい。「我らに罪を犯すものをあなたに『委ね』ますから、我らの罪をも『お委ね』します。」赦しは神に委ねる所から始まるからです。私は世の審判者でないから、独裁者ではないから、神にお委ねする。そして自分の罪も神にお委ねするのです。すると罪を赦すことにも導かれます。


            (つづく)


                                         2018年7月8日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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