人類に絶望しない


                           車山高原(2)        右端クリックで拡大。
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                                         主の祈り (3)
                                         マタイ6章9-13節


                               (2)
  「御国を来たらせたまえ」の「み国」は、神のご支配です。神が最終的にこの世を裁き、審判して下さることを求める祈り。永遠なる神のご計画がこの世界に成就することの祈りです。

  生きる事の苦悩、戦争、愛する者の死、貧困、病気、自分のせいでない逆境もあります。もし神の最後的審判がなく、不条理な事をただ忍ばねばならないのなら悔しいでしょう。だが最後に正しく裁いて下さるから、胸のしこりが取れます。み国が来て審判を受ける時、「何もかも合点がいく」(罪と罰)のです。その日は楽しみの日です。神の勝利の日です。

  日本の戦時中の研究はどの程度進んでいるのでしょう。日本では残念ながら戦争を肯定する人が目立って来ましたが、ドイツではナチスの犯罪研究が今も続けられています。ごく平凡な一般人が軍服に身を包み、銃を持たされ、ユダヤ人の殺害にも慣れて行くのが解明されています。なぜ常識があり、賢明だった人が、そこまで堕落するのかです。

  その最近の研究の1つ、ヴェルツアー著「兵士というもの」を読んだある日本の作家が、「残虐な行為が罰せられなくなると、つまり道徳や法体系も存在しない空間では、人は人でなくなる」(保坂正康)と語っています。ユダヤ人の体が濃塩酸か何かに溶かされて、1時間後に金歯と指輪しか残っていなかったというおぞましい光景さえ明らかにされています。悪への審判がない所では、人が人でなくなる。恐ろしい事です。神の最終的審判がなければ更に恐ろしい事です。ですから、「御国を来たらせ給え」の祈りは、人類の魂の願いです。

  イエスは、「人の心に何があるかを知っておられた」とヨハネ福音書は語ります。この何気ない言葉は人類の深刻な姿を示しているでしょう。人の心をそこまでご存知でありつつ、なお、イエスはこの世に神の国が来る事、この世に信頼と希望が訪れる事を祈願しなさいと語られたのです。悪がどんなに深刻でも、イエスは未だ人類に絶望しておられないのです。

  これは、次の「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りに繋(つな)がります。神の御心が地上でも行なわれるように求め、願う。この祈りが切実である時、地上の文化は良い方向に向かうでしょう。だが、この祈りが切実でない時、地は後退し堕落するでしょう。イエスは、私たちキリスト者に極めて大切な祈りを委ねられたのです。

  シュバイツアー博士は、「戦争によって文化が衰弱したと言うが違う。人間の文化が退廃したから戦争が起こった」と言います。経済が悪くなる時、人類の成熟度が試されます。多くは自分のこと以外考えなくなり、隣人を思い遣る心が退き、それを当然だと考えていく。今アメリカで起こっているのはその事です。実は、それが自分の成熟度の浅さのためだと気づかないのです。ですから、人類の成熟度は、主の祈りをどれだけ真剣に祈る人が増えるかに架かっていると言って、過言ではないでしょう。

  御心を地になさせて下さる道こそ、平和の道であり正義の道です。ですから、「義に飢え渇く人たち」は、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と切に祈るのです。

  以上、「み国を来たらせ給え。御心を地にもなさせ給え」とありましたが、ある英訳はマタイのこの個所を、「み国は来ます。御心は地になります」と訳しています。神に全幅の信頼をおき、晴々した気持で、み国と御心は地において必ず成ることを断言するのです。耳を傾けるべき点があります。



            (つづく)


                                         2018年7月8日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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