吹けば飛ぶような者も侮るな


      フィリップ2世に語るアテネの哲人デモステネス。アシュモレアン博物館で。    右端クリックで拡大。
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                                        神を見くびる (下)
                                        Ⅰコリント11章17-22節



                               (2)
  そこで分裂の具体例を上げています。分裂が富む者と貧しい者の間に起ったのでしょう。「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。」

  当時の愛餐会は各自が持ち寄りました。ところが、裕福な富める者らが寄り集まると、皆がまだ揃わないのに食事を始めたのです。食前の感謝さえしなかったかも知れません。食事をすますとワインさえ飲んで、酔っぱらっている者もいる。まるで普通の宴会です。

  まだ揃わないのは、奴隷や貧しい者らが遅くまで働かねばならず、早く終わって教会に来れないからですが、富める者らは働かなくても食える中流階級の者たちです。彼らは教会に集ってワイワイ言いながら、既に盛り上がっているのです。こうして、「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」なのです。

  早くから来た人たちに言わせると、食事は自分が持って来たのだから勝手に各自が食べ始めていいじゃあないかと言うのでしょう。だが、これでは一つの主の民とは言えないとパウロは見るのです。その原因が互いの反目にあったのですから、なお更です。

  当時、教会で食べる食事は、「アガペー」と言われました。アガペーは神の聖なる愛のことですが、愛の食事、愛餐会と呼ばれたのは、持って来た食事を分け合って食べたからです。裕福な者らは多めに持ち寄って、奴隷やその日暮らしの人、病気の人や貧しい人、下っ端の労働者と分け合って食べる。それがキリストにあるアガペー、キリストの愛を映す食事会でした。そしてこの食事の後、礼拝と聖餐式が行われたのです。このアガペーの愛餐会と聖餐式を合わせて、「主の晩餐」と呼ばれたのです。

  ところがコリント教会では、富める者たちが勝手に食べ、貧しい者らと分かち合わない。恐らくその背後に、パウロがこの町を去った後、各自はキリストに生かされているのだから、各自は自己責任である。信仰者は他の者におんぶに抱っこをされるなんて甘えはやめにしようという意見がまかり通るようになったのでしょう。神の家族という考えが薄くなった。

  自己責任。この一理ある考えが入って来て、キリストの一致を阻んだのです。あるいは一緒になるのを避けるために、自己責任と言う考えを持ち出したかも知れません。その結果、バラバラになり自分勝手になった。自分が持って来たのだからと、あからさまに自分の所に多く盛る人もいたでしょう。こうなると、キリストの前にいる貧しい人のことを考えようとしなくなります。

  これでは教会の家族性、一体性が損なわれる。一般の飲み会ではないのです。だからパウロは、「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と鋭く問ったのです。

  自分勝手に食べたり飲んだりする位なら、自宅でしては如何ですかと言うのです。自由人やローマの裕福な階級の人たちが、貧しい人や労働者階級、その日暮らしの人と共に、平等にキリストに与っている。そこにキリスト教会の美しさがあり、品位があるのではないですかと言うことでしょう。教会の麗しさとは建物のことでなく、こうした愛の香りです。

  自分勝手な在り方が教会に入り込むのは、「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」貧しい人たちを見くびるのは、教会を侮り、それは引いては、神を侮ることになります。神など何ら力を持たない、神など価値がないとすることではないでしょうか。神に恥をかかせる事ですと迫ったのです。

  反語的に言うなら、もっとキリストに心を向け、神と神の教会を侮るのでなく、もっと真摯にキリストのみ前に出ようではないかと呼び掛けるのです。

  「神の教会」。なぜ教会がそう呼ばれるのか。教会は神のキリストに呼び集められたからです。キリストが教会を主宰しておられ、キリストが教会の頭、主であられるからです。それは同好会や会員制の集団ではないからです。

  キリストに呼び集められた一人一人は、たとえ貧しい者や弱い者でも、キリストの血で贖い取られた尊い信仰者です。この世的にどんなに軽んじられた者でも、吹けば飛ぶ貧しい者でも、キリストに呼び集められた一人一人は、今日の招詞にあったように、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」というみ言葉にアーメンと語る者です。

  教会に集うのは、キリストに自分が呼ばれたという感謝があるからで、この方に従いたいという思いがあるからです。そこに教会があります。

  キリスト教会の長い歴史を通して、教会はみ言葉によって永久に改革される集まりという理解が為されて来ました。み言葉によって導かれるという事は、具体的には聖書に導かれることであり、聖書の御言葉によって砕かれ、癒され、励まされ、永久に改革されることです。私たち一人一人がみ言葉によって永久に改革され続ける。造り変えられ続けようとする。それが教会です。

  永久に改革され続けるのです。これで良しと、自分の今に安住しないのです。なぜなら私たちが目の前に置いているのは、私たちを遥かに超えた方であり、捉え尽くすことのできない全能の神だからです。このお方の前に謙虚に出る人たちは、永久にキリストのよって造り変えられ、改革されて行くことを喜び、願うに違いないからです。

  そういう思いで彼は、あなた方は神の教会を見くびるのですか。侮るのですか。そして貧しい兄弟姉妹を辱めるのですか。私はあなた方を誉めるわけにはいきませんと、コリント教会が本来の教会に戻ることを願っていくのです。


          (完)


                                         2018年7月1日




                                         板橋大山教会  上垣勝



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