そこまで配慮が必要なの?


             W. H. ハント(1828~1910)。アシュモレアン博物館。        右端クリックで拡大
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                                         自分の益でなく (中)
                                         Ⅰコリント10章19-11章1節



                               (2)
  次に彼は、具体的な例を引いて語ります。「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。」

  市場とあるのは肉市場という言葉です。肉屋で売られている肉は、いちいちそれが偶像に供えられたものかどうかなどと心配せず食べるがいい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だから、思い煩わず、神の恵みに信頼して図太く、大胆に食べよと勧めたのです。いちいち詮索しなくても、感謝を持って食べれば、神は祝福して下さるという事です。

  人間は色々こだわりを持ちます。幼児時代からの家庭環境がそうさせたり、大人になってからの環境が影響したりします。しかしこだわりは、良いこだわりはいいのですが、何かへの悪しき執着(しゅうちゃく)は自分をも人をもダメにするでしょう。

  キリスト教と仏教の共通点があるとすれば、悪しきこだわりからの解放という事です。前にも申し上げました仏教の最も古い書物に「ブッダの言葉 ―スッタニパータ― 」というのがありますが、そこに執着(仏教ではしゅうじゃくと読みます)という言葉が百回は出てまいりますし、それの類似語である迷妄、愛執、煩悩、無明、貪りという言葉まで入れれば、数百に上るでしょう。それらは無であると説き、彼、仏陀は執着(しゅうじゃく)からの解脱(げだつ)、即ち解放を説いたから当然です。

  昔、東北の町にいた頃、ノイローゼ気味の痩せた女性がいました。姉さんが佛所護念会とか言う新興宗教の熱心な会員で、妹の彼女はキリストの十字架で自分の罪を皆取り払われた、キリストの贖罪を信じて救われたという人でした。しかし、しばしば姉が、強制的に佛所護念会に連れて行くのです。引きずるような強制です。すると彼女は、自分は佛所護念の支配下に取り込まれた、キリストから離された。逃れられないという強迫観念に襲われました。そんな事はない、キリストは今もあなたと共におられると何度も色々の方面から言っても不安が取れなかったのです。それで不安神経症が愈々(いよいよ)深まって行きました。今はどうしておられるか、時々思い出します。

  コリント教会にそういう人もいたかも知れません。強迫神経症でなくても、中々偶像の呪縛から自由になれない人が居たから、パウロは、「地とそこに満ちているものは、主のもの」だ、安心しなさいと説いたのです。

  またこうも言っています。「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。」

  肉市場で売られている肉の場合と同様に、未信者から食事に招待された場合、何であろうと出されるものは感謝して頂けばいい。何がダメだ、かにがダメだなどと言ったり、神経質になる必要はない。

  ただ、誰かが、これは偶像に供えられた肉ですよ、食べたら汚されますよと言った場合、その人のため、その人の事を配慮して食べてはいけない。その人の良心のためにいけない。その人を躓かせる可能性があるからいけないのです。自分の良心でなく、その人の良心を慮(おもんばか)ってのことですと言うのです。

  彼は弱い人たちにかなりの配慮をしています。ただ、そこまで配慮する必要があるのか?という人達もいたでしょう。それが20節半ばからの、「どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです」とある言葉でしょう。

  もし彼らの言葉なら、自分はキリストによって偶像の呪縛から解放されているのに、私の自由が他人の良心によって左右されよと言うのはおかしい。そこまで弱い人への配慮は必要ない。私の良心が感謝して食べるなら、悪口を言われる筋合いはない。自分の行動についてとやかく言われたり、罵られたり、侮辱的に言われたりされていいでしょうかという質問になるでしょう。

       (つづく)

                                         2018年6月17日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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