多様なものの美しい一致




            C. A. Collins (1828ー1873)アシュモレアン博物館で           右端クリックで拡大
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                                          多数で一つ (下)
                                          Ⅰコリント10章14-16節




                              (3)
  さて、今日の中心の16節です。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」

  聖餐式のことが言われています。聖餐式で、「祝福の杯」とも言いますが、「讃美の杯」を牧師が捧げ持って、神を賛美し、祝福を祈って杯を会衆に配ります。私たちの教会では配餐者にお配りして皆さんに配りますが、この配られた杯を「讃美の杯」あるいは「祝福の杯」と呼びます。

  この祝福された杯を受けるのは、私たちが「キリストの血に与ることではないか」と言うのです。「与る」という言葉は、コイノニアというギリシャ語で、キリストとの交わりのことです。

  聖餐式で赤いブドウ酒を頂くのは、自分のために流されたキリストの尊い贖いの血潮を頂き、主の愛の痛みを味わい、その命に与り、キリストと交わることだと言う事です。その時キリストの血によって罪赦され、清くされる。キリストの交わりに与るのは、象徴や比喩でなく実際にキリストとの交わりだと彼は言いたいのです。

  Aさんのお便りから知ったことです。数年前に、ある方が97才で召されました。戦前に、お父さんが病に倒れ、娘5人息子2人の一家の生活が極端に苦しくなりました。それで長女のこの方が19才で、一家を支えるためにお給料の良い上海の日系企業に就職します。だが必死に働いて仕送りを始めたものの喜びが感じられないのです。日中戦争が始まり、南京大虐殺が起る年です。何故か空しい。

  そういう中、上海の教会に行くうちに、神の愛を知ると共に自分の罪を知らされて信仰に導かれます。キリストに救われてからは、働くことにも喜びを覚えるようになり、会社から帰ると毎日祈りを日課にしたそうです。

  ある土曜日の夜、祈るうちに熟睡してしまい、目を覚ますと夜が明けていました。ところが目覚めた瞬間、目の前に真っ赤な字が現われて、「イエスの血、全ての罪より我らを潔(きよ)む」という聖書の言葉が迫って来たそうです。第1ヨハネの言葉です。その時、み言葉に電撃のように撃たれ、キリストによって潔められたと、キリストが潔めて下さったと感じたそうです。それで喜びに溢れて、日曜日の礼拝に行ったそうです。それ以降、み言葉がこの方の人生を変え、結婚してクリスチャンホームを作って行きます。町屋新生教会にBさんという方がおられますが、Bさんはこの方の息子さんです。

  私たちも、讃美の杯に与る時、「イエスの血により、今や全ての罪より潔められた」と告げられています。イエスの血を偶像のように扱うのではありません。キリストの血は、私たちの良心を潔め、罪を取り除き、活ける神を礼拝するまことの礼拝者に変えるからです。

  「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」という言葉も、同じです。ここに言われる「パン」は、パンの大きなひと塊りのことです。今は日本でもパン屋さんに行くと、太く大きなバケットパンが売られていますが、あれが、「私たちが裂くパン」です。

  本来、聖餐式は、司式者が会衆の前で一つのバケットパンを裂いて会衆に配りました。ですから私たちが小さく裂かれたパンを頂く時、大きなひと塊りのパン、キリストの一つの体に与ることだと言いたいのです。この「与る」という言葉もコイノニア、交わりという言葉です。私たちは聖餐式でパンに与る時、十字架の恵み、キリストご自身とリアルに交わるのです。

  ですから聖餐式で会衆が多数いても、同じパンに与っています。教会に集る人は色んな人がいます。辿って来た育ちも、歴史も、経験して来たものも違います。単純に考える人も複雑に考える人も、同じものに出会っても悩む人も喜ぶ人もあります。年齢も性別も個性も違います。国籍も違います。しかしキリストとの交わりに与って、違いが越えられ、一つにされる。違いがあるまま、多様な者であるまま、キリストにおいて一つである。多数で一つである。偶像礼拝には多様な者を受け入れる余地がありませんが、キリストには多様な者を一つにする恵みがあります。

  パウロが言うのは、教会に集う全信徒はキリストの一つの体の共同体であることを、聖餐式で味わうのだと言う事です。キリストに与ることにおいて、多にして一、一にして多という真理は、キリストの体なる教会の恵みを指し示すのです。

  17節の、「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」という言葉は、今申しましたことを語っています。

  教会に集められた人たちの多様性が、そのままキリストの共同体の一体性を基礎づけるのです。色々の人が居て良い。それが美しい。この恵みのパンを、赦しのパンを必要とする人は、誰でも招かれています。この総体が一つです。この総体を結びつける方がキリストです。

  繰り返しますが、聖餐に与ることによってキリストの体と交わり、キリストの体と交わることによって、与る者たち同士の交わりがキリストの体である教会として実現するのです。そしてキリストに集められた者たちが社会へ派遣される。日常の中でキリストを生きる事へと向かう。それが教会です。礼拝が日常へとつながって行く。それがキリスト教です。

  聖餐に与ることによって、あらゆる違いと差別を越えた終末的な一つの群れ、聖徒の交わりは実現しているのです。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と使徒信条で告白するのはこの事です。


        (完)

                                         2018年6月10日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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