逃げる道がある。逃げてよいのです。


               F.Sandys(1829ー1904)アシュモレアン博物館で         右端クリックで拡大
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                                          多数で一つ (中)
                                          Ⅰコリント10章14-16節



                               (2)
  「偶像礼拝を避けなさい。」この言葉には、偶像礼拝自体を避ける意味と、偶像礼拝の場所を避ける意味があります。場所を避ける事が強調されると、お寺や神社、お寺のお墓などに、一切行っちゃあいけないということになります。そういう教会がありますが、パウロはそんな狭い了見で言っているのではありません。

  毛嫌いではありません。ただ偶像礼拝にも温度差があって、取り立てて問題視する程でないものと、かなり問題なものがありました。例えば偶像に人身御供を捧げる場合です。日本にもありましたね。ギリシャ神殿には神殿娼婦らがいて売春をしていました。伊勢神宮の巫女さんらは、夜は旅館に出掛けて春を売ることもあったようです。

  偶像礼拝には何かしら邪悪で陰湿な空気が漂っています。先程触れたように、いずれもその根は不安を埋めるために神でないものを利用して神と崇め、利益、繁栄、富、戦争の勝利を願って、最後には人々をその神(偽りの神)に仕えさせて犠牲を要求して来るからです。

  パウロが今日の続きの19節で、「偶像が何か意味を持つということでしょうか」と問った後、20節で、「偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」と言っているのも、偶像礼拝には、人間の罪に関係する何か邪悪な影が見え隠れすることを示唆しています。

  偶像はギリシャ語でエイド―ロスと言います。これは「見る」という言葉が語源ですが、目で見、確実に掴めるもの。幸福や繁栄を具体的に見たい、掴みたいという心の現われです。見える神が欲しい、イスラエルが求めたのはそれです。

  偶像に捧げるのは悪霊に捧げることだとパウロは語りましたが、悪霊は「ダイモニオン」という言葉です。これは英雄の霊の事で、それを神格化したのがダイモニオンです。家康も、秀吉も、信長も、乃木大将も、明治天皇も皆、英雄として祀られています。靖国神社は英霊を祀ります。ドイツから来た牧師を志す青年が靖国神社を見て大変驚きました。戦争の霊を祭り、東条英機などA級戦犯らも神にしているからでドイツではありえない。時代錯誤を生きている日本に大きなショックを受けたのです。

  だが偶像礼拝も現代社会の中で洗練されると、邪悪さがなりを潜めます。それでも何かの際にフッと息を吹き返します。

  「避けなさい」とは、逃げなさいという意味です。他の人が偶像礼拝をしていても、あなたはそれに倣うな。そこから逃げよ、避けよ。何もよいものはないと言いたいのです。前の13節で、「逃れる道をも備えていて下さいます」という言葉も見えます。

  小さい頃から「逃げてはならない」と教えられて、それが私たちを束縛する一つの律法になっている場合があります。逃げる事はどんな場合も弱虫だ。それはズルイと思う人が多くいます。私自身、逃げちゃあいけない、逃げることは悪と考える傾向があります。自由でないのです。

  しかし、「逃れる道をも備えていて下さる。」これは大変大事なメッセージです。現実から逃げてばかりではいけませんが、神が、逃げる道を備えられる場合があるのです。私たちは自由です。何が何でも逃げずに自分を追い詰め苦しめると言った、自己への厳しい厳格主義は魅力もありますが、必ずしも信仰と言えません。神でなく、面子や自分に固執しているに過ぎないかも知れません。

  「孫子の兵法」というのがサラリーマンたちの処世訓として読まれますが、子ども向きにした本が出ました。中々考えさせられます。目次を拾いますと、「相手を追い詰め過ぎてはいけない。」本当にそうです。子どもを追い詰め過ぎて、5歳の女の子が死んだ事件がつい先頃起りました。あれは追い詰め過ぎというより殺人ですが、あの子は追い詰められて、「もうお願い。許して下さい。お願いします」とまで追い詰められていました。家内はここ数日、かわいそうだ、かわいそうだとばかり言っています。

  またその本に、「意味のある逃げるだってある。かなわないなら、サッサと逃げるもよし」とありました。パウロの場合、偶像礼拝から逃げる、これも意味ある逃げだと言い、卑怯でないという事です。

  ついでに申しますと、「優れた人は一つのことを、プラスとマイナスの両方から考える」という言葉もあります。物事を一面的に考えてはならない。憎しみや、感情に流されて一方的な見方をすべきでないと語るのです。教えられます。


        (つづく)

                                         2018年6月10日



                                         板橋大山教会  上垣勝



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