満天の星空を仰いで


                        アシュモレアン博物館で。          右端クリックで拡大
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                                             望みなき時も (下)
                                             創世記15章1-6節



                               (2)
  すると、「見よ、主の言葉があった」と書かれています。見よ、驚くべき事に、主は以下の言葉を語られたという意味です。彼を圧倒して迫って来たのです。

  それが4節、5節です。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と語り、彼を外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と約束されたと言うのです。

  東京の夜空は星がまばらですが、田舎に行ったり、深い山に行けば、満天の星に出会えます。今は満天の星の鑑賞に何千円も取る観光地もあります。人間にかかれば大自然の夜空の清さも金まみれで厭になりますが、冒険さえすれば費用をかけなくても容易にできるのですが。

  星の数は、海辺の砂の数と同様、無限を意味するでしょう。21世紀になっても星の数は数え切れません。星座の背後に更に星座があり、その背後に星座があって、小さい星クズともなればその数億倍、数兆倍に達します。しかも宇宙の奥深くどこまでも星は尽きないようです。そこに科学者が魅せられるのでしょう。もしかすると、それは神の懐につながっているのかも知れません。

  いずれにせよ、彼は満天の星空を仰いで神の言葉に圧倒されたのです。神はアブラハムに、「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。すると、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」のです。

  彼は99歳、サラは89才です。数え切れない程の子孫など、不可能です。逆立ちしてもあり得ません。絶対という言葉をつけてもいいでしょう。ところが絶対に不可能にもかかわらず、それに逆らって信じたのです。

  一体、何を語ろうとしているのでしょう。アブラハムと言う3800年前の人物を、今も多くの人が知っています。普通なら他の無数の人たちと同様、忘れ去られて当然です。しかしキリスト教徒もユダヤ教徒も、信仰を持たない人も彼の事を知る人が多くあります。彼に、何かしら私たちの心を打つものがあるからでしょう。何千年もして、普通なら歴史の闇に消え去る筈の男が、どうして私たちの心を打つのか。中東の一角に生きた古代の一人の移民が、どうして現代人の心をも捕えるのでしょう。

  秘密は、「アブラハムは神を信じた」という一語で明らかにされています。彼はこの時、初めて神の存在を信じたのでなく、聖書を見ると、彼はカナンにやって来た時、12章でも、13章でも、既に主なる神の存在を信じ、祭壇を築いたり、主の名を呼ぶ信仰者であった事が分かります。

  この事について、テゼ共同体の文書から示唆を与えられました。久し振りにテゼの事に触れますが、長年、ギリシャ語やヘブライ語アラム語、その他の古代語を深く研究して来た人が、ある時、テゼに滞在しました。その時、彼は、「神を信じると言う事は、神に堅く自分の足場をすえることを意味する」と語ったのです。何気ない言葉に思えます。信じるとは、神に自分の足場をすえて、その生き方を堅く取って離さない事。信じ抜く事、心を定める事、うろたえない事。神を信じるとは、神に感謝して、背筋をまっすぐ伸ばして生きる事だという事でしょう。「わが心、定まれり」と詩編にあるように、心が定まり、堅く神に足場をすえるのです。

  アブラハムは故郷を後にしてから、転々としました。定住しなかったのです。だが移住を繰り返しつつ、常に神に定住していたのです。神に錨を下ろしていた。主なる神から移動しなかった。浮気はいけませんよ。嫁さんを泣かせちゃいけません。この主にのみ信頼を置き、主に留まり続けたのです。

  その中で、地上的な支援が途切れても、この神にあれば堅く立つことができると知ったのです。動揺がなかったと言えば嘘です。だが一時は動揺してもまた元に戻りました。やがて彼は、何の人的支援がなくなっても、神に踏み留まり、それのみか大らかに生きることができると発見するのです。主なる神を信じる時に、思い掛けないほどの安定を見出すのです。

  テゼの文書にこう書かれていました。彼が信仰と希望を探し出したのか。見つけ出したのか。否。信仰と希望が彼を捉えたのだ。どういう事でしょう。

  「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」とありました。「見よ、主の言葉があった」ともありました。主の言葉に圧倒されて信仰と希望が、望みなき彼に訪れたのです。空の星のようにあなたの子孫を与えるという約束は信じ難いです。彼はそれを無視し、忘れることも出来ました。だが彼は、天を仰ぎ、神の言葉を心に刻み、望みなき時も背筋を伸ばして真直ぐに歩いたのです。

  ローマ書4章に、「あらゆる望みに逆らって、彼は神を信じた。それで彼は多くの人の父となった」とあるのは、この事を指します。新共同訳は、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」と訳しています。

  望みなき時も、たとえそうでなくても、私は信じます。この神への信頼を堅く持つのです。彼はたとえ一人になっても信じたでしょう。たとえ一人になっても信じた時、彼は人々に希望をもたらす人になったのです。その歩みが多くの人の心を打つのです。

  彼は神を堅く信頼し、「これでよし」という道、「これで行こう」という在り方を見つけたのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」のです。神に「義とされ、正しいとされ、よし」とされた。詩編92篇に、義とされた者たちはナツメヤシの木のように繁る。レバノンの香柏のように育つと歌われています。

  アブラハムに従って希望の道を拓く人は僅かでしょう。私たちは古いアブラハムのように先ず不満を述べ、疑いを持ち、苦情を言います。何が悪いか、どこが悪いか。誰が悪いかなどです。

  神が沈黙しておられる時、答えを待つには忍耐が要ります。しかし望みなき時にこそ、どうあるかが大事です。キリストにある信仰は、あらゆる不利な状況においても堅く立たしめる力です。背筋を真直ぐ伸ばして立ち、神を仰いで前進し、生きるのです。不満ではない。

  私たちが信頼するから神が存在するのでなく、私たちが信頼しなくても、神は存在し、歴史を導いて行かれます。神は、私たちが堅く、断固としてあることの源です。信仰は常に、神にある安定に至るのです。自分自身に安定がない時にも、信仰は私たちに安定をもたらすのです。

  一生を棒に振ってはなりません。棒に振らないために、私たちは神に足場を据え、断固として留まり、私たちの人生の源をしっかりと持つべきです。


          (完)


                                         2018年6月3日


                                         板橋大山教会  上垣勝



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